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ラッダイト運動をしてみたくなることだってある

ラッダイト運動は、メタバースの時代にFAXに固執するような、ブロックチェーンの時代にハンコに固執するような、そういう馬鹿馬鹿しさの代名詞として扱われる。

僕は、この扱いには違和感がある。

だったら何か? 嫁子どもと共に低賃金で搾取されながら1日16時間も工場で働き詰めていることがスマートな生き方だったとでも言うのだろうか?

かつて、仕事は職人たちのものだった。自分で裁量を持って、自分の腕一本で、自分の誇りにかけて物を作っていた。

それが今や機械を前にした単純労働に変わった。低価格の大量生産品と、安い子どもの労働力が、市場を掻っ攫った。

テクノロジーは進歩した。しかしそれは、万人が富と余暇を味わうという結末をもたらさなかった。労働者は資本家のどてっ腹を肥らせるために馬車馬のように働かされた。

そりゃあ、機械壊すって、普通。

かつての職人がどれくらい働いていたかは知らないが、きっと日々の糧を手に入れるために過労死するようなことはなかった筈だ。機械は不幸の象徴(だからぶっ壊す)と労働者たちが結論づけるのも無理はない。

ラッダイト運動は、愚かさの象徴として扱われるのは、ネオリベ的自己責任論の影響を感じる。「時代の変化についていけないものは生き残れない‥勉強しない奴は一生奴隷さ‥ふん」的な価値観だ。

普通、変化できる人なんて、ほとんどいないのだ。そういう普通の人を置いてけぼりにするのなら、何のために時代が変化しているのだろうか?

時代とやらは、便利な方向や、人々が幸せになる方向に向かっているのではないのか? だったら変化できない普通の人たちが幸せになる方向へ向かっていないとおかしくないか?

「努力し、変化した者だけが富む世界なのだ‥」と、もし主張するのであれば、それこそ普通の人にとってはディストピアだ。不毛で過酷な競争の中で生きるくらいならば、機械を壊した方が手っ取り早いという結論に至るのもなんら不思議はない。

さて、なんやかんやあって現代。僕はYouTubeやニコニコ動画、DTMやおもしろフラッシュ倉庫を生み出したコンピューターは好きだけれど、ExcelやPowerPointを作り出したコンピューターは嫌いだ。前者は僕たちを楽しませてくれるけど、後者は僕たちを苦しめるだけ苦しめて、大してなにも効率化していない気がする。

どんな道具も使い方次第。なんだけれど、やっぱりぶっ壊したくなる気持ちもわかる。ぶっ壊したところで解決しないこともわかる。でも、ぶっ壊すことしかできないケースもある。

ナミが労働組合を結成してストライキを展開したところで、アーロンが完全週休2日制を導入したかどうか、よく考えて欲しい。あるいは、ナミが海図作成をコンピューターによって効率化したところで、アーロンがナミにボーナスを支給したかどうか、よく考えてほしい。

壊すしかないのだ。

一応、現代は国家が人権とやらを守ってくれることになっていて、不当な扱いを受けたときには非暴力的な手続きでなんらかの解決を図ることが可能であり、そうすべきということになっている。

もちろんこのシステムは万全ではないので、ラッダイト運動が起きたってやむを得ない。ラッダイト運動をしたい気持ちにさせる社会の方に問題があるのだから。

とにかく、ラッダイト運動を馬鹿にするな。僕が言いたいのはそれだけだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!