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ニートとキャリアブレイク

※タイトルを回収するのは記事の後半である。しばし前置きにお付き合い願いたい。


ニートが幸福を追求しようと思ったなら、無為徒食に過ごすことはむずかしい。なぜなら、幸福にはなんらかのマイプロジェクトの追求が欠かせないという事実を、即座に彼は発見するからである。

僕は定義上の厳密なニートではないが、事実上のニートであり、「見込みニート」だ。僕もまた、幸福を手にするために、マイプロジェクトの追求を渇望するニートの1人である(ちなみに僕は無為徒食に過ごすニートを「ダウナー系ニート」、プロジェクトに邁進するニートを「アッパー系ニート」と呼んでいる)。

このこと自体が、世間の常識とはギャップがある。世間では、無為徒食に過ごすことが至上の幸福であり、なんらかのプロジェクトに邁進することとは不幸なる労働を意味すると考えられている。「いいな、ニートは毎日ダラダラできて。こっちは朝から晩まで慌ただしく働いているというのに」と人がニートに嫌味を言うとき、明らかにこの常識に則って発言している。

もちろん、直感的には誰もが理解している。やるべきことがない生活は退屈であると。人はプロジェクトを欲望し、プロジェクトに邁進することは幸福であると。しかし、プロジェクトに対する欲望を一言で表す単語は存在しない(「活動欲」とかそんな言葉でも作ってみようか)。だからあたかもそんな欲望が存在せず、怠惰に過ごすことを人が渇望しているかのように、世間はニートに嫌味を言う。

もちろん、こんなことを言えば世間は次のように反論してくるだろう。

ニートのプロジェクトなど無意味で役に立たないものなのだから、そんなものは自己満足の道楽に過ぎない。労働におけるプロジェクトは他者への貢献であり、それゆえに責任や苦痛がともなうのだ。ニートはその責任や苦痛から逃れている。

これに反論するのは容易い。まず、労働の苦痛は他者への貢献に由来するものではなく、他者からの支配に由来するものである。通常、自発的に行われた他者への貢献はむしろ快楽が伴う。このことは日常生活と照らし合わせて見れば明らかだろう。人は他者への貢献も欲望し、他者へ貢献したことを実感すれば幸福を覚える(しかし、これらの欲望を言い表す単語も存在しない。僕は「貢献欲」という言葉を作ったが、まだまだ普及途中である)。

そして、活動欲が貢献欲と重なり合ったとき、ギブ&テイクではなくギブ=テイクになる。ギブする側もテイクしている感覚になるというわけだ。

もはや自分のためにやっているのか、他人のためにやっているのかよくわからない。東洋哲学オタクはこういうとき「自他の境界線が消える」とか「ホールネス」とか小難しいロジックをひねくり出すわけだが、こういう言葉を使うとスピリチュアルな印象を世間に与えて「最近はマインドフルネスとか流行ってますもんねー」とかなんとかお茶を濁されるのがオチである。

世間「あ、あとは山奥のお寺で好きにやっといてくださいねー」

そんな難解な話ではなく、あくせくと世話を焼くおばさんでも思い浮かべればいい。彼女は世話を焼きたいという欲望に従って世話を焼いているようにしか見えない。ならば、活動欲とか貢献欲という言葉の方が明晰に事実を語れるはずだ。

さて、活動欲や貢献欲には完全を求めようとする衝動が備わっている。なんらかのプロジェクトを追求するにあたって、自分が満足するクオリティに達していなければ、そこに達するまで努力しようとするのが普通だ。もちろん、水準が低すぎれば面白みがないし、高過ぎれば挫折する。ちょうどいい高さを乗り越えてスキルアップし、また次の少し高いハードルを超えていくということが、人間が求める欲望を満たすちょうどいいプロセスなのだろう(簡単すぎるゲームに人がすぐ飽きるという事実は、その証拠のうちの1つだ)。

会社とは自動的にハードルを設置してくれる装置でもある。ただし、そのハードルは自分で用意したものではない分、そのハードルを超える必然性に納得できない可能性が高い。不満を抱きながらも、渋々ハードルを越えようとすることも多いだろう。が、無理やり納得することは可能だ。意識高い系社畜とは、会社が用意したハードルに納得しきった人々だと解釈できる(また、マネジメント層になるほどハードルを自分で設定する裁量を手にする。そして仕事に満足する確率が高まる。意識高い系社畜は、その境地に達している可能性もある)。

社畜とは支配されることをマイプロジェクトに設定した存在とも言える。

ハードルを用意してくれるのは会社だけではない。例えば友達に「引っ越しを手伝って」とお願いされたとき、友達はハードルを用意してくれたことになる。その友達のことが好きならば、喜んで手伝うだろう。そして、その行為は内発的な動機によって突き動かされているように感じるだろう。洗濯機をどうやって階段から下ろすか? どうやって車に積むか? そんなことを考えて実行することで、彼はハードルを超えていき、そのことに満足するはずだ。

では、会社からの命令には不満を感じる傾向にあり、友達からの依頼なら内発的な動機に変換されるのはなぜか? それは命令お願いかの違いに由来する。

命令とは、やりたくないことをやらせることを意味する。やりたくなくても断れないのだ(やりたいことをやってもらうなら、定義上は命令ではない)。

一方で、友達からの依頼はお願いだ。お願いは断ることができる。同意できる依頼にだけ取り組むなら、彼は全ての貢献に内発的な動機を見出すだろう。それに友達の方も、断られる可能性を考慮して、あまりにも無茶なことはお願いしようとはしない。

さて、ここまでの議論から必然的に導き出される仮説は次のようなものだ。

ニートは他者への貢献を嫌悪しているのではなく、他者からの命令を嫌悪しているのではないか?

ニートに対して、友達からのお願いのような、同意できるプロジェクトを提供したのなら、彼はイキイキと貢献するのではないか?

もちろん、これで即座に「めでたし、めでたし」とはいかない。

プロジェクトには困難と挫折がつきものだし、即座に心が折れてしまうニートもいるだろう。そこで「ほら見てみろ、だからニートは鞭打ってマニュアルに従わせながらこき使わないとダメなんだ」と早急に結論づけたなら、彼は心を閉ざしてダウナー系ニートに逆戻りである。

ハイハイに失敗しては挫折を繰り返す赤ちゃんを見て、即座に車椅子に乗せようとする親はいない。プロジェクトを邁進するのは彼自身なのだ。彼が彼のペースでハードルを乗り越えるのを見守るほかない。できるのはせいぜい多少のアドバイスくらいだろう。

ならば、現代から失われているのは自発的な動機で何かに取り組み始めるのを待つゆとりではないだろうか?

空白期間を嫌悪する面接官は、自発的なプロジェクトを発見するために必要な時間を彼に与えようとしない。それは自発的な動機を伴わない強制による労働を引き起こし、結果的に病んだ労働社会を生み出しているのではないだろうか?

「ゲームしてました」で良いんだよ。普通はね。

人に貢献することが嫌で自殺する人はいないし、カフェラテの入れ方が難しくて自殺するカフェ店員はいない。追い立てられ、命令され、支配され、責め立てられ、過剰に働かされ、やりたくないことをやらされることに病んで、人は自殺する

つまり、求められるのは自発的な貢献を待つ社会だろう。そのために必要なムーブメントとして最近僕が注目しているのがキャリアブレイクであり、キャリアブレイク普及を目指す「キャリアブレイク研究所」である。

記事には、ニートが思わず目を背けたくなるキラキラ意識高い系のオーラが漂っているが、目を背けないでいただきたい。なぜならキラキラ意識高い系のオーラを纏うことは、ことのほか重要だからである。

雑に説明すると、キャリアブレイク研究所とは、キャリアの空白を人生に必要な準備期間として捉える風潮を作ろうとする営みだと思われる。これを「空白期間を権利として認めよ!」のように労働運動に身を捧げる左翼のような文体で主張すれば最後「黙って働けよクソニート」と一蹴されるのがオチだろう。

しかし、意識高い系のオーラを纏うことで、生産性至上主義の労働社会のメンバーであることを装いながらも、しれっと空白期間の確保を要求できる。「ほう、いまはキャリアブレイクなるものがトレンドなのか‥やはりSDGsなVUCAの時代にはキャリアプランにもダイバーシティを‥」と、現代の労働教教祖である大企業のオッサンやビジネス芸人、経済学者たちを納得させられる可能性があるのだ。

また、キャリアブレイクを海外の文化として紹介しているあたりもポイントが高い。「海外(自動的に欧米を想起させる)」とは箔をつけるのに最も有効な単語のうちの1つだからだ。

では、キャリアブレイクの機運が高まれば次は何が求められるだろうか? 当然のことながら、キャリアブレイクするには金が必要である。家賃の支払いにも苦労するワーキングプアがキャリアブレイクするという選択肢は現状ほとんど閉ざされている。雇用保険は穴だらけでめんどくさいし、取得までのバッファもある。となると、最も求められるシステムはベーシック・インカムである。

ここまでの議論を読めば、ベーシック・インカムに反対する理由はない。人はなんらかの貢献を欲望するという結論から、ベーシック・インカムが配られても社会に必要なインフラは維持されるはずだ(そもそも農家の半分が事実上のベーシック・インカム受給者である年金生活者であるにもかかわらず、農家は仕事を続けていることからも、この主張は確実であると思われる)。そして、財源は国債発行で賄えばいい。インフレは金余りではなく、財とサービスの不足から起きる。財とサービスが不足しないことを前提とすれば、国債発行は大した問題ではない(金がなくてもモノあれば死なない。逆に金があってもモノがなければ死ぬ。サンジとゼフの過去編で僕たちは一体何を学んだのだろうか)。

まとめよう。キャリアブレイクへの機運が高まればベーシック・インカムへの機運も高まる。ベーシック・インカムがやってくればニートも労働者も解放される。ニートは「働け」などと言われることはなくなり、自由な意思が解放された結果、逆に自由に社会に貢献し出すかもしれない。労働者は不愉快な労働を逃れ、好きなことをやり始める。世界はハッピーである。

だからと言ってニートが「キャリアブレイク中」などと名乗ることは慎重になるべきかもしれない。なぜなら、せっかく「キャリアブレイク」という言葉が纏っているキラキラ意識高い系のオーラを台無しにしてしまう可能性があるからである。「またニートが都合のいい言葉を生み出して、働かない言い訳をしているよ‥」と思われてしまえば最後、キャリアブレイクが市民権を得ることはなくなる。

もしキャリアブレイクを応援したいなら、ニートを抜け出して、何かキラキラのキャリアを実現した後に「実は◯年間、キャリアブレイクしていました」と名乗りをあげるのがいいだろう。人は成功者の苦労話には熱心に耳を傾けるが、成功していない者の苦労には冷淡である。あなたが成功していないのであれば、余計なことは言わない方がいいのかもしれない。

そう思うのなら、僕のようなアンチワーク哲学者を名乗るようなイカれた左翼っぽい男が、キャリアブレイクに言及するのは避けるべきなのかもしれない。だが、良いではないか。これは僕にとってのマイプロジェクトなのだから。この文章が誰かに貢献しているのか、していないのかはよくわからないが、書きたくなったから書いた。それだけである。

さっきは言論統制するようなことを書いたが、やっぱり前言撤回である。好きなことを書けばよし。

好きにキャリアブレイクすればよし。ただし生活は保障できない。生活を保障できるのはもはや国だけである。

ベーシック・インカムを早くよこせ。労働はクソ。マジで働きたくないでござる。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!