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悲劇のガリレオ症候群について

キングコングの西野がお金の話をするときは、必ず導入部分を彩る鉄板トークがある。

日本では、お金の作り方や守り方の話をまじめにしていても、「はしたない」「銭ゲバ」だとたたかれます。「お金の話はするな」と、間違った知識すら子供に教えてしまっている。お金があれば自殺しないで済んだ人、犯罪に手を染めずに済んだ人は、世の中に大勢いるのに。それを見ていたらどうしても、「お金の話をちゃんとしよう」と言いたくなったんです。

※出典はこれだけど、いろんなところで似たような話をしている。

これを読むたびに思う。

「言うほど、そんな奴おるか?」と。

「僕の周りの人間と、西野の周りの人間が違うだけ」というだけでは説明がつかないほど、僕の周りでそんな話をする奴がいないのだ。

むしろ、みんな金の話は大好きだし、株の話とか、積立NISAの話とか、金の儲け方について話をしていると「ちゃんと勉強していて偉いなぁ」と言われることの方が多い気がする。

実際、みなさんの周りにいるだろうか? 投資の話をした途端に「金の話をするなんて、はしてない!」と憤り始めるような人は?


(「いるいるー!」と思った人は、このままそっ閉じして欲しい)





さて、これで、「そういう人はいない」に同意してくれた人だけが読んでくれているわけだが、なぜこんな現象が起きるのかを考えてみたい。

つまり、実際には存在しない「金の話を嫌う大人」をわざわざ想定して、西野が話を始めるのかという問題について考えたい。

もっと言えば、「なぜそのことを突っ込む人がいないのか?」という問題まで到達したい。

まず僕は、この現象を「悲劇のガリレオ症候群」と呼ぶことを提案したい。なぜ、そう呼ぶのかは順を追って説明しよう。

義務教育で歴史を学んだことのある僕たちは、世間一般に流布している常識が、後に間違っていることが判明するケースがあると知っている。例えば、地動説を唱えたガリレオは、天動説という常識に敗北したことは有名な話である。ガリレオが正しいとされたのは、ある程度時間が経ってからであった。

誰しも自分のことを、天動説に固執する愚かな大衆ではなく、周りに流されず「誰も気づいていない真実」に到達したガリレオであると思い込みたいものである。

現代は、知的に卓越していることに大きな価値があるとみなされる時代である。知的に卓越しているということは、誰も知らないことを知っていることを意味する。つまり、知的に卓越していることをアピールするために何らかの意見を表明するならば、「知的に卓越」の定義上、自分とは異なる常識を信じ込む愚かな大衆の存在が必要なのだ。

このとき、その大衆が実際に存在するかどうかは問題ではない。その気になって探せば、大衆が存在する根拠の1つや2つくらいはみつかる。それを現実世界からチェリーピッキングしていけば、大衆が存在することを本人は信じてしまうだろう。

そして、本人が信じ込んでネタにする大衆の存在を、オーディエンスもまた、信じ込むことがほとんどである。

なぜ、オーディエンスは大衆の存在を信じ込むのか? それは、彼らも「自分は愚かな大衆ではない」と信じ込みたいからである。自分は愚かな大衆ではないと信じるためには、愚かな大衆の存在を信じるのが手っ取り早い。

目の前の西野が愚かな大衆の存在を仄めかしてくれている。それに「うんうん」と頷くだけで、自分は愚かな大衆とは差別化された、知的に卓越した人物になれるのである。誰がその誘惑から逃れられるだろうか?

そして、オーディエンスが頷くのを見れば、西野も自分が想定する「愚かな大衆」が確かに存在する証拠だと錯覚する。こうして、インタビューを受けるたびに存在しない大衆の話からスタートする西野亮廣という人物が完成するのだ。

さて、悲劇のガリレオ症候群は、何も西野に限った話ではない。実際のところ、僕も悲劇のガリレオ症候群にかかっているのではないか?と感じることもある。

何か意見を表明するということは、その意見が常識ではないと想定していることを意味する。なぜなら、その意見が常識であるならわざわざ主張する必要がないからだ。「人間には酸素が必要である」とか「車とは乗り物である」というnoteは誰も書かない。

常識とは異なる意見を表明するということは、常識を信じる愚かな大衆を想定していることを意味する。このとき、実際に愚かな大衆が存在しているケースもあるだろうが、そうでないケースがないとは言い切れない(ましてや僕は600とか700もnoteを書いてきたのである)。

故に、こうしてネットに意見を表明する以上、悲劇のガリレオ症候群に陥る危険性は常に存在するのだ。

そして、この意見すら、実はそんな症候群に罹っている人は存在せず、単に僕がそういう愚かな大衆を夢見ているだけであるという可能性すらある。

ただしその場合は、僕自身が悲劇のガリレオ症候群になっていることは疑いようがなく、悲劇のガリレオ症候群は間違いなく存在することになる。

我思う、故に我あり!!(ちがうかw)



というわけで、みんなは気をつけようね!

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!