アナキストは農業とアートを登竜門にするのをやめればいいと思う
都市派アナキストはバンクシーみたいなことをやり始めて、自然派アナキストはマーク・ボイルみたいなことを始める。
都市派アナキストは、「あ、なんだかややこしい現代芸術ね」と一瞥され、自然派アナキストは「環境に優しくて素敵ね、ふふふ」と微笑みを投げかけられる。
どちらも変人の奇行にしかなれないのだ。このままでは、アナキズムが市民権を得ることはない。
かつてはモブによる暴動を意味していた民主主義(デモクラシー)という言葉が今では神々しさを放っているように、アナーキーとかアナキズムという言葉が市民権を得るにはどうすべきか? そろそろまじめに考えてもいいのかもしれない。
別にアナキズムは、アナキストの発明品ではない。旨味成分が日本人の発明品ではないのと同じだ。それは日常に溢れていて、「愛」とほぼ同義語だと言ってもいい。
寿司屋で醤油をとってあげる。フードコートで人数分の水を入れてきてあげる。飯を奢ってくれたお礼にコーヒーを奢る。譲ってくれた車にハザードを焚く。どれも愛であり、アナキズムだ。利己的か、利他的か、そんな判断基準を度外視すれば、そこにアナキズムが発生する。
ただ、現代では愛は貴重なモノだとみなされている。1%でも利己心があればそれは愛ではない‥そんな風潮すらある。逆に、利己的である方が正直で人間味があって信頼できる‥そんな風潮も出てきた。
嘘か本当か、中国では汚職しない政治家は信用されないと聞いたことがある。日本でも、それに近い状況になりつつあると言ってもいい。僕たちは普段生きていて、偽善ではなく、偽悪が求められることの方が多い。
実際は利己でも利他でも大した違いはない。ただ、利他的な心を誰しもが持っているのだ。そういう事実に気づくこと。そして、日常に溢れるアナキズムを再発見していく営みが必要だと思う。
農業とか、アートは、あくまで二次的な営みだ。生活が愛で成り立つと気づいたときに、市場経済と離れた農業がやりたくなるし、市場とは無関係な純粋な生の弾みをアートにしたくなるものであって、これらは入門編としては敷居が高すぎる。
あと、グレーバーやHDソローを引用するくらいならまだしも、ニーチェや老子、プルードン、クロポトキン、大杉栄、トルストイあたりを引用してくるのはスノッブ臭がキツい。
もっとアナキズムが身近なものになっていけばいい。そしてイケてる人たちの最先端のトレンドになっていけばいい。
ブレイディミカコはいい仕事をしてくれた。が、まだまだこれからだね。
頑張ろう。アナキストたちよ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!