見出し画像

迷惑をかけてはいけないと教え込まれて育った僕たち

この前、人生で初めて救急車を呼んだ。

道をふらついていたら、おばちゃんが大声で「誰か来てください!」と叫んでいる。何事かと思って駆け寄ったら、90歳くらいのおばあちゃんがうつ伏せで跪き、頭を地面に打ち付けるような形で倒れていた。アスファルトには見たことのない量の血が広がっていた。

助けを呼んでいたおばちゃん曰く、「私は携帯持っていないの!」とのことだったので、僕が119番をした。

救急車が到着するまでの5分間、僕はやるべきことを考えた。どうやらおばあちゃんは意識を失ったとか、心臓発作を起こしたとか、そういう類の不具合ではなく、単に転んで頭を打ったようだった。しきりに「腕が痛い」と言っていたので、腕も骨折しているのかもしれない。

変に動かして骨が歪んだり、傷が悪化したりするリスクも考えられるので、僕は「無理に動かなくて大丈夫ですから、楽にしていてください」と声をかけた。僕はただの素人なので、動かすのはプロに任せようと考えたわけだ。

しかしおばあちゃんは、僕の声かけを無視して、モゾモゾと立ちあがろうとする。僕は大丈夫ですよという意思表示のつもりで、おばあちゃんの腕に手を置いた。左手が真っ赤に染まった。

もしかしたら、今の姿勢では、腕が圧迫されるなどして痛いのかもしれない。そこで僕は「起き上がった方が楽だったら僕が起こします。そうしますか?」と伝えた。

それでも尚、おばあちゃんは自力で立ちあがろうとする。「動かない方がいいです」と、いくら伝えても無駄だった。「どこが痛みますか?」とか「ぶつけた箇所はどこですか?」と言った問いかけにも全く反応してくれない。まるで、僕がそこにいないかのように、おばあちゃんは振る舞い続けた。

僕の顔を見ても僕だとわからなくなった、実のおばあちゃんの顔が脳裏をよぎる。もしかしたら、会話もままならないほどの痴呆症を抱えているのかもしれないと僕は考えた。

しかし、どうにもそうではないらしかった。救急車が来て、救急隊員があれこれ質問をすれば、おばあちゃんはハッキリと受け答えをした。倒れた時の状況や、痛みの状態、などなど。そして、彼女は救急隊員に身を委ねた。僕は「あとは我々が対応します。通報ありがとうございました」と促されるがまま、現場を後にした。

受け答えもできていたわけだし、脳に深刻なダメージを受けたとか、生命に関わるような大ごとにはならないのではないかと思っている。そういう意味で、もう僕に必要以上の心配をする理由はないのかもしれない。

それでも僕は、あのおばあちゃんの態度がずっと脳裏をグルグルと回っているのを感じる。無視されて腹が立ったとか、そういうことではない。

あのときのおばあちゃんの態度は、こういうメッセージを発信していたように感じる。「人さまに迷惑をかけるわけにはいかない。自分で起き上がりますから、手助けは結構です」と。

実際、90歳にもなろうというおばあちゃんが立ち上がることはどう考えても不可能だった。それでも頑なに自力で立ちあがろうとしたおばあちゃんは、きっと何かを勘違いしている。

きっと僕のことを、手助けするのが嫌で嫌で仕方がない、利己的な人物であると思っているのだ。だから、僕が手助けをしなければならない状況は「迷惑をかけられている」ということになる。

僕はそこそこ利己的だが、血まみれのおばあちゃんを見て見ぬふりなど、誰にもできない。手を差し伸べられる位置に苦しみが存在していると知った以上、助けられないことは、それ自体が苦しみになる。だから、手助けをすることで苦しみから解放されたい。

しかし、おばあちゃんは、僕がそんな苦しみを感じることに想像が及ばなかったのだ。

優しさを受け取ることも、1つの優しさである。
ホモ・ネーモ

このように考えれば救急隊員には素直に受け答えをし、身を預けた理由も説明がつく。救急車は「プロによるサービス」だから、遠慮する必要がなかったのだ。彼女は恐らく一般市民として税金を払ってきており、その対価としてサービスを受けることは、救急隊員に対する負い目にはならない。彼らは単に仕事をしているだけ。そんな風に彼女の脳内で合理化が図られたのだろう。

「迷惑をかけてはいけない」と言われて僕たちは育ってきた。その前提となっている考えは、「人さまは手助けをすることなんて嫌に決まっている」というものだ。そんなわけがない。

手助けをすることは、助けられた側はもちろん、助けた側にも満足感を与える。そのことを見逃した道徳観は、極めて浅薄な人間理解に基づいている上に、逆の意味で礼節を欠いているように思う。「お前はどうせ利己的で、人のために行動なんてしたくないだろう?」と突きつけられたような気分になるからだ(もちろんこれは僕の被害妄想であって、おばあちゃんにそんなつもりがないことはわかっている)。

もう少し、僕たちは人間というものを理解した方がいいのかもしれない。合理的な個人みたいなモデルを元にした道徳観は、モデルそのものがいくら攻撃を受けているとは言え、消えてくれない。

人が利他的行動に満足感を覚えることを前提とすれば、必然的に導かれる道徳は次のようなものだ。

困ったときは誰かを頼ればオッケー。

これくらいラフでいいんだよ。ラフで。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!