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優しい合理的経済人

妻の友達(とその家族)が我が家にやってきて少し早いクリスマスパーティをやった。

僕は家にあった有り合わせの材料でピザ2枚とサラダ2種類を作った。妻は唐揚げとシューケーキを用意し、飾り付けの材料も用意した。友達Aはお皿と飲み物を用意した。友達Bはお菓子を用意した。

わいわいと楽しんだ後、あの瞬間がやってきた。「じゃあ精算しようか」と友達Aが火蓋を切る。

まず各自の持ち出し費用を確認するわけだが、厄介なのは我が家である。材料は有り合わせの食材が大半なので、費用は正確に計算しようがない。「2000円か3000円くらいちゃう?」と妻は財布を取り出しながら答える。「じゃあ3000円ってことにしよか」と友達Aは返す。そしてテキパキと誰が誰にいくらの借りがあるのかを計算していく。

「私はBに200円返さなあかんから‥」「あぁ、200円くらいはもうええよ‥」「いやちょうどあるから渡すわ」「あぁ、ありがとう」と、そんな調子である。

さて、僕は不思議に思いながらその光景を眺めていた。

その場にいる3人の友人たちは、誰1人として最小のコストで最大の利益を得ようだなんて考えていないのである。

もしそう思うのであれば、友達Aは我が家の材料費を2000円として計算するように主張しただろうし、友達Bは200円のお返しを断ろうとはしなかったはずだ。それに我が家は材料費だけではなく光熱費や地代といったコストも勘定に入れるべきだと主張するだろう。となると他の友達は交通費を計算に入れるように主張する。もっと言えば、誰が唐揚げを幾つ食べたのかを詳しくカウントするように伝票でもつけ始め、準備や後片付けへの貢献度をスプレッドシートで管理すべきという案も出てくるかもしれない。

そうしないということは、皆がある程度は返礼を期待しない贈与という心構えでこのパーティを迎えているわけだ。

だったら、わざわざ精算する必要はあるのか?という疑問を抱かずにいることは、僕にとって難しかった。

正直なところ、おそらく我が家が最もコストをかけているわけだが、別にお金をもらう必要なんて感じていない。何も気にせず「ごちそうさまー!」と言って精算することなく帰っていったとしても、別に何とも思わないのだ。

それでも、わざわざ清算を申し出てくれたなら、拒否しようとは思わない。なぜなら、相手の善意を無碍にもできないし、それに相手に負い目を感じてほしくないからである。

恐らく、人が精算する理由の大半は、あまりにも貸し借りの関係が偏りすぎると人間関係に亀裂が入るかもだろう。つまりそれは権力や支配が入り込む余地を減らし、楽しい雰囲気を台無しにしないようにするためだ。それは自分の利益でもあるが、ここでいう自分の利益とは「みんなで楽しむ」という利益だ。

「みんなで楽しむ」という雰囲気は、あまりにも脆い。「おい、200円少ないぞ」とか、「俺ばっかり働いていないか? お前ら手伝えよ」とか、そんなことを言い始めた途端に、理論上「みなが楽しく自発的にこの場に向き合っている」という事実が崩壊し、少しでも利益を引き出そうと虎視眈々と睨み合う敵対関係で場が支配されているという事実が生産される。

そんな事実が生じたなら、唐揚げの数や貢献度をスプレッドシートで管理することが妥協案としては妥当である。それを運用するためはイレギュラーを回避する透明性のあるルールも必要だろう。つまり「唐揚げを1口だけ食べて、誰かにあげる場合は、食べた量にかかわらず2人とも0.5個食べたこととする」といったルールだ。

お互いが利己的であると考えて管理や監視をし合うのはめんどくさいし、余計によそよそしくなる。
だからそんな面倒くさいことをするくらいなら、誰もパーティを開こうとは思わない。

これは友達同士だからできることなのだろうか? そうとも限らない。見ず知らずの他人といきなりクリスマスパーティをしたとしても、たぶん僕たちの家族は同じように振る舞った。

目が合った他人に優しくしないことは、意外とむずかしい。だから都会の人は街角で声をかけてくる男の話を無視するのだ。一度話を聞いてしまって自分の人間関係のフィールドに彼を入れたなら、優しくしたいという気持ちだけで投資マンションを買いそうになる。

こういう人間が当たり前に持つ心理を基準に経済なるものが組み立てられていたのなら、彼は投資マンションを売る必要はなかっただろう。そもそも投資などという概念も存在しないからである。

そんな社会になるといいなぁ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!