リベラルに潜む強欲

自分の意見を一方的に主張し、相手の意見を聞き入れない姿勢は、今日では悪いこととされている。その一方で、多様な意見に寛容なリベラルな姿勢は良いこととされている。

だから今日では、誰もがリベラル的な立場を自称する。「私は自分と違う意見にも積極的に耳を傾け、それが自分の意見よりも説得力のあるものなら直ちに採用する」かのように振る舞う。

もちろんこれは嘘だ。

僕を含めてたいていの人は、自分と違う意見をほとんどの場合で却下する。

ただし、別にこれ自体はなんら問題ではない。「嫌なものは嫌だ!」「俺がこう言うからこうなんだ!」「異論は認めない!」という発言は、ワガママの表明だ。つまり発言者は、「コイツはワガママな奴だ」というマイナス評価を引き受けて、自分の意見を通そうとしている。

これはかなり納得感のある議論だ。なぜなら、究極の根拠が「俺が思うから」以外になく、それ自体は完璧な論理だからだ。

問題となるのは、根拠が「俺が思うから」以外にないにもかかわらず、あたかも相手の意見に耳を傾けているかのように振る舞う姿勢だ。

これは究極の傲慢としか言いようのない様相を見せる。

この前、選択的夫婦別姓に反対の人が、このように言っていた。

否定はしない。しかし、理解できないものは認めることはできない。

この人は、選択的夫婦別姓に反対する根拠として、学校や病院で名前を呼ぶとき親子で苗字が違うとややこしいとか、そんなことを言っていた。「その問題をどうするつもりだ?」という疑問の形をとった一方的な却下と言っていい。つまり、明らかに否定している。しかし「否定はしない」と宣言することで、否定していることを否定している。

冷静に分析しよう。

この人は全く真逆の2つの願望を同時に叶えようとしている。「自分は多様な意見に寛容なリベラルだと印象づけたい」と「自分は自分の意見を押し通したい」の2つだ。

リベラルであるという姿勢を見せれば周囲に好印象を与えられる一方で、とことんまで議論に付き合う必要がある。これは、はっきり言ってめんどくさい。議論の正誤が完璧に判断できる場面なんてほとんどなく、結局のところ「好きか嫌いか」の議論に行き着くのだ(選択的夫婦別姓も、突き詰めれば好きか嫌いかの議論だ)。こうなれば、両者の意見を慎重にすり合わせて、ちょうどいい落とし所を探り出す必要がある。これには膨大な時間を要する。

本来、この労力と引き換えでなければ、真のリベラルという評判を手にすることはできない。

一方で、自分の意見を貫き通したいときは、ワガママな人物という評判を受け入れなければならない。これは当然リスクを伴う。

ようはトレードオフの関係なのだ。それなのに、等価交換の法則を無視して、両方を得ようとする強欲さが、現代の自称リベラルの特徴と言っていい。

自称リベラルは、とある架空の人部を想像している。理由も根拠も添えることなく、非論理的に相手の議論を抑え込み、一方的に自分の意見を押し通す人物だ。

理屈と膏薬はどこにでもくっつくし、盗人にも3分の理がある。どんな主張にも理屈を添えることは可能だ。ならばこんな人物が存在しないことは明らかなのだが、リベラルはそういう仮想敵を用意しておけば、「自分は根拠を用意して議論している」という自己意識を強化できる。そして、自分の意見の元となる根拠は好き嫌いであるにもかかわらず、それが議論の末に万人が必然的に辿り着く真理であるかのように振る舞うのだ。

こんな傲慢な姿勢は、他にはない。苗字がややこしいとかそんな話は、はっきり言って枝葉末節だ。僕は小さい頃から母親と苗字が違ったが、それで困ったことも迷惑をかけたことも多分ない。「あ、違うのね、ふぅん」で済む話だ。その根拠は、議論の材料の1つにはなるかもしれないが、それをもってして論破完了であるかの如く振る舞うのは、却下であり否定であり、押し付けだ。

こういう人に対して議論を続けていけば、どうなるか? 大抵「屁理屈だ」と言って押さえつけられるか、「はいはい、わかったわかった」と言って「相手が屁理屈を並べ立てて埒があかないから、大人な自分が一歩引いてこの場を収めた」と周囲に印象づけようとする姿勢を目撃することになる。

ファッキンリベラルだ。「自分は真理に到達した」という一段高い目線から見下ろしてくるのは反吐が出る。神になれない僕たちは、地面を這いずり回りながらワガママをぶつけ合うしかないのだよ。リベラルどもは人間界に降りてこい。話はそれからだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!