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プロを気取らなくてもいいんだよ、noteならね

プロしか発信できない時代があった。今は素人でも発信できる時代である。プロというのは一つの信仰対象である。信仰対象であるためにはブランディングが必要だ。例えばマクロ経済学のプロということは、主にマクロ経済について語り、分子生物学や『ジョジョの奇妙な冒険』、盗撮系AVについて語らないことを意味する。そうしなければブランディングが成立しないからである。なんの変哲もない醤油に卵かけご飯専門の醤油という名前をつけて売り出したり、氷屋さんのかき氷とわざわざ看板を出すのも、プロ信仰を利用するものだ。

しかし、なぜ人はプロであろうとしたのか? かつてはプロであることは発信の前提であった。本を出す。雑誌を出す。マスに向けて発信するには、初期投資が必要で、それを回収する必要があった。回収するためには一定以上の注目を集めなければならなかった。注目を集めるにはプロである必要があった。

だが、今は違う。発信には初期投資が必要なく、故に金を稼ぐ必然性がなくなった。ならば、本来プロである必要はない。

とは言え、依然としてnoteをはじめとした素人発信メディアの究極目標は金を稼ぐことであるという価値観は根強い。故に、なにかのプロになろうとしたり、何かのプロを自称しようとする人は多い。

しかしこれはまっこと勿体無い現象である。なぜなら、僕たちが1つのテーマでしか語れなかったのはプロを装って金を稼ぐ必然性があったからであって、本来であれば僕たちはいろんなテーマについて語りたい生き物だからである。

マクロ経済のプロと言っても、日がな一日マクロ経済について考えているわけではない。漫画を読んだり、AVを観たりすることもあるだろう。その過程で感じたことも、本来語りたいはずなのだ。

昔は語れなかった。今は語れる。ならば、語ったほうがいい。

なにか1つに特化することが人間の理想的なあり方だとする風潮は根強い。1万時間の法則とかなんとか言って、とにかく好きなら突き詰めろと僕たちを駆り立ててくるのだ。しかし、人間の暮らしは多面的であって、昔の人は農家であり大工であり織物職人であり料理人であり炭焼き職人だったわけだ。

狩猟採集民も、彼らはハンターであり、植物学者であり、動物学者であり、天気予報士であり、武器職人であり、父親であり…と無数に職業を持っていた。

もちろん、おおよそ1つに絞る生き方があってもいい。それでも、人生にはいろんな側面がある。これまでの社会は、人生の多面性を否定してきたように見える。分業と規模の経済の理屈は、理屈で考えればその通りなのだけれど、自分のケツを拭いたり飯を口に運んだりする行為をアウトソーシングする未来が馬鹿馬鹿しいように、限度ってものがある。

いろんな側面を味わって、いろんな側面を発信して、生きていきたいのだ。僕はね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!