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人は「偽善」ではなく「偽悪」を強いられる

この前、近所のスターバックスに家族3人で行ったとき。席を探して辺りをキョロキョロしていたら、近くの女性が声を掛けてきた。

女性「ここ、もう空きますよ」

すぐさま妻が反応した。

妻「いえいえそんな、ゆっくり座っていてください」

すると、女性はこう返した。

女性「いえいえ本当に大丈夫です。すぐに店を出なければならない用事がありましたから」

なるほど。僕たちが席を探しているタイミングでたまたま席を立つ用事があったため、女性にとってノーリスクで利害が一致する。そこで、戯れに僕たちに声をかけたという説明だ。

結局、その言葉に妻は納得して、女性は席を譲ってくれた。

さて、この女性が言うことは果たして本当だったのだろうか? たぶん、半分本当で、半分嘘だったのだと思う。すぐに席を立つ必要はなかったが、きっと親切に譲ってくれたのだろう。

もし、世間に流布している説明の通り、人間が完全に利己的だとすれば、無償で親切にしてくれる人は怪しい。メリットがないのに人に親切にする行動には説明がつかないから、何か裏に狙い(見返りを期待しているとか)があるのではないかと勘ぐってしまう。

しかし、人は完全に利己的だという神話は間違っている。そもそもこの宇宙に完璧な動機など存在するはずがない。明らかに人は誰かに親切にしたいという欲望を持っている。

その欲望を素直に追求すれば、相手に怪しまれたり、負い目を感じさせてしまう。だから、親切には裏があることを説明する必要が生まれる。つまり「私は善意で親切にしているのではなく、たまたまメリットがあるから親切にしているに過ぎない」ということをアピールしなければならない。

偽善ではなく、偽悪だ。

有名人が被災地で炊き出しをすれば、偽善と罵られることが多い。まっこと馬鹿馬鹿しい。そりゃあ、相手に感謝されたいとか、イメージアップしたいという動機も全くゼロではないだろう。だからといって、誰かを助けたいという善の気持ちが皆無ということにはならない。

人間の動機は基本的に混乱している。100%善の気持ちを表す脳内物質が存在するわけではないし、逆もまた然り。それなのに、100%善であることを証明しなければ、それは100%悪だということになる。もちろん、100%善であることを証明するのは不可能だ。

いっそ「イメージアップしたいから炊き出しするのだよ! 悪いか?」と偽悪的に振る舞った方が、インターネットの住人たちは納得するのではないだろうか。彼らは人間が100%利己的であると信じているので、そのストーリーに収まりのいい動機を用意した方が納得感を得やすい。

どうしてこんなにモラルが混乱しているのだろうか。素直に善でいることが許されていれば、もっと思いやりにあふれた世の中(例えばアナキズム的な世の中とか)になるはずなのに、僕たちはいちいち悪を装うことを強いられる。

善に理由をつけないでいい。恩を感じる必要もない。僕たちはただ純粋に親切なのだから。

ツルに何かしてもらおうという下心があった訳ではない。ツルが傷が全快して飛び去って行ったとしても、べつに「恩知らず」などといってツルを責めたりはしなかったことでしょう。
寺山 修司『群れるな』(P74)

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