肩書きを拒否した人間「ホモ・ネーモ」

「肩書きなんて意味ない」と誰もが口にする。でも実際のところ、肩書きの魔力は強い。ある程度付き合いが深まっていけば、肩書きではわからないその人の個性や魅力を知ることができるが、大して知らない人を判断するには、肩書きに頼るしかないのだ。

僕は肩書きによってチャンスが集中して格差が生まれることを憂いている。例えば、たまたま「デビュー組」という肩書きを得たかどうかで、同期で同じだけ努力していた2人のジャニーズJr.は全く違う人生を歩む。そのように生まれた格差は「運も実力のうち」という逃げの文句で正当化される。

「運も実力のうち」なんて嘘だ。冷静に考えれば、「運」と「実力」が別物ということは誰にだってわかる。

「運が良かっただけの人をもてはやしているに過ぎない」という事実を社会全体が認めたくないがために、「確かに運も影響しているけど、それも実力のうちだよね~」ということにして正当化しているだけだ。

もちろん僕は努力や実力の影響を全く否定しているわけではない。ただ、運も大きな要素であるにもかかわらず、それも全て「実力のうち」として存在しないかのごとく扱われていることに違和感を覚えている。

そうやってたまたま得た肩書きは、固定化され、取り返しのつかない格差を生む。

そんな社会は、間違っているような気がする。

…にも関わらず、油断すれば僕も肩書きで他人を判断してしまう。本を選ぶときも、著者がどこの大学で教えている人なのかを見てしまうし(僕はハーバード・ビジネススクールの講師が書いている本は避ける傾向にある)、お気に入りの文化人が帯にコメントしているかどうかは僕の購買意欲を大きく左右する(斎藤幸平がコメントしていれば、気になってしまう)。

そして僕自身も、「東大卒」とか「元デロイトトーマツ」とか「チューリング賞受賞者」とかそういう肩書きを持っていないので、とにかく手元にある武器をかき集めようとしてきた。

「育休中パパ」とか「ワンピースオタク」とか「20代男性」とか「隠キャ」とかそういうやつだ。

それを見た人は、肩書きが持つイメージの中に、その人の存在を押し込むことになる。つまり必然的にステレオタイプ化する。

「ワンピースオタク」認定された僕は、あたかも四六時中、ワンピースのことを考えているかのごとくイメージされる。

ある程度、仕方のないことだ。現実のその人を完全に理解することは不可能なわけだし、どこかで妥協してその人を抽象化しなければ、コミュニケーションを取ることは難しい。

以前、ある知り合いの家を訪ねる前「チーズケーキとショートケーキどちらが好き?」と聞かれた。正直どちらでもないのだが、「どちらかといえばチーズケーキ」と答えて、チーズケーキをご馳走になったことがある。

1年後、再びその人物の家を訪れたとき、僕はその出来事をすっかり忘れていたのだが、彼はまたチーズケーキを用意して、こう言った。

「チーズケーキが好きだったよね? もしかしたら食べたことある種類かもしれないけど…ちょっと珍しいチーズケーキを買ってきたよ」

あたかも、僕が世界中のチーズケーキを買い求めるマニアであるかのような扱いだ。もちろん、これは事実ではない。僕は、強いて言えばチーズケーキが好きなだけであって、それでもチーズケーキを食べるのは年に3~4回くらいだ。

これは極端な例だと思うが、こういうステレオタイプ化からは逃れられない。出会った人全員と共同生活をして、毎晩本音で語り合うなんてことは不可能なわけだし。

…ということを鑑みて、僕も先ほど挙げたようなセルフブランディングを試みてきた。

でも、冒頭に挙げたジャニーズJr.の例のように、ほんの小さなきっかけで「デビュー」という肩書きを得たかどうかによって、大きな格差が生まれるのは、僕は良いことだとは思えない。

学歴だって同じだ。新卒で大手企業に入社したかどうかという点もそうだ。資格も、「月100万稼いだ」みたいなやつもそうだ。

肩書きがある人は無条件で受け入れられて、肩書きがないだけで取るに足らない人物という扱いを受ける社会は、僕は許容したくない(ただのやっかみだと言われればそうなのだけれど、僕のように大多数の持たざる者にチャンスが少ないことは事実だろう)。

だから、まずは僕が肩書きを捨てようと思った。

とは言え、老子が名付けようのないものに「道(タオ)」という名前をつけざるを得なかったように、便宜的な名称がなければ、僕たちは認識すらできない。

最近僕は、ホモ・ルーデンスとか、ホモ・パピーとか、ホモ・サケルとか、そういう言葉にはまっているので、「ホモ・●●」という名前をつけて見たいと常々思っていた。

色々調べていると、「誰でもない」という意味の「NEMO(ネーモ)」というラテン語があった。

「これだ!」ということで、僕は便宜的に「ホモ・ネーモ」と名乗ることにする。結局これ自体が、「肩書きを捨てるという決断をした人」という肩書きになってしまうのだが、これ以上はもう人間の認識力の限界なので、妥協する。

というわけで僕は肩書きでステレオタイプ化されることを拒否する誰でもない人間。ホモ・ネーモだ。以後お見知り置きを。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!