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権力者よ、権力を満喫せよ

Mさんが面白いデータを引っ張って、面白い記事を書いていた。

そこで引用されているのがこれ。

一見、権威主義的に思える日本人がアンケート上では他国と比べて圧倒的に「権力・権威嫌い」と結果が出ているらしい。

では、道を歩けばプラカードを掲げたアナキストがそこら中に溢れかえっているのかと言えば、そんなことはない(むしろ、そういう人は白い目で見られることになる)。つまり、明らかに何かがおかしい。

Mさんはこのことを説明するとある仮説を立てた。

ここで一つの仮説を立てるなら、「日本人の権力・権威嫌い」に当てはまらない権力(権威)については、ひとはその権力と同一化しているのではないだろうか。

これに関しては完全に僕も納得させられてしまった。恐らく日本人はすでに当たり前のものとなっている権力を権力だとは思っていないのだ。

「権力者」というと、僕たちはついついドラクエに出てくる魔王のような人物を思い浮かべる。つまり、悪い企みを働かせ、私欲のままに人々を虐殺する、傍若無人な悪者だ(恐らく日本だけが極端に数値が低いのは、「権力」という単語に日本人が他国とは違った意味を付与しているのではないかと思われる)。

逆に、善良な王様がいい法律を決めてそれに人々を従わせることは権力だとは思っていないのではないだろうか? あるいは、法律やルール、上下関係のシステムは権力だと思っていないのではないだろうか?

ここには合理性信仰の片鱗も見られる。合理的に考えれば民主主義や減税、教育や少子化への投資という結論が当然得られるのだから、それに従うことは恣意的な権力に従うことではなく、合理的選択に過ぎない、というわけだ。

世界と比べてその傾向が強いのは、同質性の強い国民性のせいだろうか。価値観の衝突がなく、全ての意見対立は理論のみで解決可能であるとする幻想が強く、その結果、「権力」という単語に単なる「ワガママ」のような意味しか読み取らなくなったのではないだろうか。

(いや、僕は日本でしか暮らしたことがないから知らないんだけどね)

ところで、恐らくこれは権力者自体もそう思っているはずだ。僕には岸田文雄が自由な主体として権力を満喫しているようには見えない。政治家界隈の空気と憲法に支配されながら、半分操られているような気分なのではないだろうか?

つまり権力者すらもシステムに支配されている。先日僕は権力がゼロサムゲームになると良くないみたいなことを書いたが、もはや権力に関してはマイナスサムゲームになっている。みんながみんなで損をしているわけだ。

だったらゼロサムゲームの方がまだマシだ。どうせ支配されるのであれば、せめて権力者には権力を満喫してもらいたい。と思うのは僕だけだろうか。こそこそと料亭に通っても楽しくないだろうに。大っぴらに酒池肉林を満喫してくれればいいのだ(これは会社という組織でも同様である。上司や社長に対して「やることないならゴルフでも打ちに行ってこいよ、邪魔やねん」と思ったことのない会社員など日本には存在しないと思われる)。

もちろんそんなことをしていたら被支配者に怒られるかもしれないが、大奥みたいなものはずっと存在していた。権力者が贅沢をすることには、意外と国民は文句を言わないはずだ。そもそもリムジンに乗って、料亭通って、豪邸に住んでるのを見て「チャリ漕いでマクドで政治談義してワンルームマンションに住めよ」と言う人はいない。

権力とは、国家とは、そもそも支配者のためのオモチャだったはずだ。『君主論』を読めばそのことがよくわかる。マキャベリは国民のことなど歯牙にもかけず、君主が権力を満喫することにしか関心がなかった。

どうせなら楽しめ。無意味な官僚仕事も放り出して、官僚の大半を全員クビにして、その分の金で大奥でも作ってくれ。無意味にみんなが苦しむくらいなら、せめて権力者くらい楽しんでほしい。

もちろん、そんな考えを大っぴらにしようものなら、革命待ったなしである。まぁ、それはそれで面白いのでいいじゃないか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!