見出し画像

人件費の安さを理由とした労働の押し付けは、奴隷労働となにが違うのか?

10年ほど前、旅行先のウズベキスタンの市場で、乳を押し付けてくる若い女に出会った。

たぶん、僕が20歳そこらの好青年だったことを差し引いても、1ドル80円ほどの円高という当時の状況がなければ、僕は民族衣装に包まれた推定Dカップの乳を楽しむことはできなかっただろう。

要するに、そのDカップの女は僕の金を求めていた。さらに言えば、「日本人なら金を持っている」というイメージに吸い寄せられたのだ。

僕はまんざらでもない気持ちだったが、とくに買い物をする予定もなかったので、軽くあしらった。すると彼女は、数少ない日本語のボキャブラリーの中から必死で絞り出した悪態の言葉、すなわち「ちんちん!」という言葉を僕に向かって吐き捨てた。

僕がウズベク語に堪能であれば「そんなに俺のちんちんが欲しいのかい?」と軽快なジョークを飛ばしていたのに、そのことだけを未だに悔やんでいる。

いきなりタイトルとかけ離れたエピソードから導入してしまったので、これを読んでくれている人は戸惑っているかもしれない。

僕は今回、国による人件費の相違について話をしたい。要するに、人件費の安い彼女は、人件費の高い僕のような日本人に搾取されているということが言いたかったわけだ。

僕が今働いている会社は、中国の人件費の安い工場に物を作らせて輸入し、それを国内で売り捌き、その利鞘で儲けを出している。商社といえば商社だし、貿易会社といえば貿易会社だ。

かつて、ウズベキスタンはシルクロードと呼ばれる通商の道があった。あっちで取れる珍しい石をこっちに運んで利益を出すような、そういう商人が行き来していたらしい。

かつてのシルクロード商人と僕たちは似ているようでどこか違う。その土地にしかないものを遠くに運んで利益を得るのは避けようのない合理性がある。しかし、どこでも作れるようなものをわざわざ外国から買ってくるのは、人件費の差以外の点において全く合理性がない。

これは端的に、搾取構造だと思っている。金という権力を持っている僕たちが金を持っていない人たちに奴隷労働を強いていることを、どうして否定できるだろうか(いや、できない)。

これは僕たちの経済システムが非人道的なだけではなく非効率であることの証拠だ。近場でも作れるものをわざわざ遠くで作らせているのだから。

現在、人件費の差があること自体は、当然のことであるとみなされている。僕はこのこと自体に疑問を投げかけたい。人の能力には差があって当然だが、それだけでは説明がつかない差が生じるのは、格差以外の何物でもない。

僕は経済には疎いので、なぜ人件費の差が存在しているのかはわからない。誰かに尋ねてみても「経済が発展していないから」というほとんど回答になっていない回答しか得られないだろう。「経済が発展している」とはその国の人の所得が高いということであって、要するに先ほどの回答は「人件費が安いから人件費が安い」と説明しているだけなのだ。

かつての奴隷は強制労働されているのに対し、現代の労働者は(一見)あくまで自由な契約に基づいて労働している。また、スキルアップすることによって更なる良い仕事に就くことができる点も、奴隷労働との相違点として挙げられる。だが実際のところ、この説明は胡散臭い。『奴隷のしつけ方』という本を読めば、奴隷だって上手く立ち回ればアメリカンドリームを掴めることがわかり、なおかつそれをニンジンとしてぶら下げられていたことが理解できる。要するに程度の差でしかない。

まぁ、人道的な側面を差し置いても、他の条件が同じなら、地産地消できるに越したことはないことは、誰も反論できないだろう。だったら、地産地消を目指した経済システムにさっさと移行してしまえばいいのだけれど、僕にはその道筋は見えてこない。砂漠で蜃気楼を見ている商人はきっとこんな気持ちだったのだろうか。

わからないことだらけで、僕から述べられる結論はなにもなかった。強いて言えば、金ではない男の魅力を鍛えてから、乳を揉めというくらいだろうか。

ウズベキスタンの女の子は可愛いよ。ぜひ、次の休暇にでもいかが? 運が良ければDカップを押しつけてくれる女にも出会えるかもしれない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!