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果てしなく周りくどくて、手間がかかる、僕たちの「効率化」について

僕は求人広告を書く仕事をしている。当たり前だが、求人広告は食べたり、着たり、遊んだりするためのものではない。稀に読んで楽しい求人広告もあるだろうが、あくまで例外的なものであって、求人広告に金を払うクライアントは、読む人を楽しませるために金を払うわけではない。あくまで人を「効率的」に集めるために金が払われる。

人材派遣会社が、求人広告で人を集めることがある。人材派遣会社は野菜を作ったり、家具を作ったりしない。ただ、「効率的」に人と企業をマッチングさせることをミッションとしている。

テクノロジー系の人材派遣会社なら、派遣先がSIerということはよくある。SIerも、直接的に何かを生産するわけではない。どこかの企業から何かを「効率的」にするためのシステムの制作を外注されただけだ。

SIerが制作するシステムは、様々だ。経理システムだったり、物流システムだったり、人事評価システムだったり。

経理システムとは、金を「効率的」に勘定するためのものだ。それ自体は、なにも生み出していない。金というのは経済システムを「効率的」にするものだとみなされている。故に経理システムは「効率的」に「効率的」なツールを管理するものということになる。

物流システムも、大抵の場合はモノの数を数えたり、お金を数えたりして、事務処理を「効率的」にするものだ。当たり前だが、事務処理自体はなにも動かさない。

人事評価システムがあれば、人材を適材適所に配置できるばかりか、人材のモチベーションがアップするとされている。つまり、人が「効率的」に働くようになるというわけだ。

ここまでで、すでに膨大な労働力が注ぎ込まれているのは明らかだ。しかし、ここまでに挙げた仕事は全て、あくまで何かを達成するための手段でしかない。

言い換えれば投資だ。未来に回収されることを夢見て、投資のために投資して、投資のために投資をしている。

では、その先にある目的はなんなのだろうか? 当然だが、人が働く究極の目的は、カボチャを生産したり、洗濯機を修理したり、必要な人のもとに荷物を届けたり、疲れた人をマッサージしたり、読んで楽しい漫画を描いたりすることだ。

果たして究極の目的のために、「効率化」とやらは役に立っているのだろうか?

仮に、際限なく続く「効率化」の連鎖が、これらの究極の目的を完全に自動化するのであれば、労力に見合うものだと納得できる

だが、実際のところそうではない。マッサージチェアは人をイラつかせることしかできないし、自動運転車はいつまでたっても袋小路にいるし、農業ロボットはベテラン農家の仕事を半分も肩代わりしないし、AIが描いた漫画なんてゴミとしか形容のしようがない。

つまり、効率化に次ぐ効率化の末、究極の目的(俗に言うエッセンシャルワーク)は大して効率化されていないのだ。

事実上、「効率化」は役に立っていないのに、「効率化」に携わる人は膨大な富を吸い上げている。たいてい、究極の目的に取り組んでいるドライバーや農家や工場労働者よりも、高い報酬を受け取っている。

これは端的に言って搾取だ。「雨乞いをするから米をよこせ」と言っているのとほぼ同じ構造なわけだ。

この雨乞いには、とんでもなく手間がかかっているため「俺は苦労したから、それだけの報酬を受け取る権利がある」と錯覚させる魔力が備わる。本人だけではなく、エッセンシャルワーカーすらも錯覚させる。

エッセンシャルワーカーは、自分たちの仕事は誰にでもできるつまらないものであって、あくまで雨乞いのおかげで成り立つ仕事であり、自分たちの収入が低いのもやむを得ないと考える傾向にある。少なくとも、外見上は納得しているように見える。

だから、せめて自分の子どもには、雨乞いをさせたいと考える。子どもの方も、雨乞いの仕事の方が好ましいと考え、エッセンシャルワークを見下す(コンサルティングファームよりも、ビル清掃会社で働きたいと考える学生を1人でも見つけることができるだろうか?)。

ならば大学に行くために勉強をする。その周りにも「効率的」に試験をパスするためのアプリがあって、「効率的」に大学に集客するためのHPが用意される。

僕はここまでエッセンシャルワークは必要という前提で話を進めてきたが、それすらも実は怪しい。それだけ効率化して作ったモノが、本当に必要かどうかはわからないからだ。

例えば、綿花を栽培する農家や、縫製工場の人たち、完成した服をトラックで運ぶドライバー、港湾労働者は紛れもなくエッセンシャルワーカーだ。

しかし、アパレル業界は生産した商品の50パーセントを捨てている。もっというとファッション誌とワイドショーに踊らされた挙句クローゼットの中に閉じ込められた大量の洋服は、捨てられる50パーセントに含まれていない。誰も着ることがない服のための膨大な労働は、果たして必要だろうか?

大量の食品ロスも、一度使っただけで捨てられるビニール袋も、誰も読んでいないダイレクトメールも、エッセンシャルワーカーによって生産され運ばれている。

ここまで読んできて、今の社会が馬鹿馬鹿しいと思わない人がいるなら、僕はその人の頭の中に浮かんでいる言葉を思い浮かべることができる。

「雇用が生まれて、金が、経済が回っているではないか? そうやって社会は成り立っているのだよ」

あるいは

「必要のない仕事なんてない。必ずどこかで役に立っている」

だろうか。

この人は気づいているのかどうかわからない。前者の反論では「社会全体で無駄なことをしている」ことを認めてしまっているということに。

後者の反論に至っては、まぁそう言われればそれ以上なにも言えないのだが、ここまで読んできて本当にそう思っているのか、僕には疑問だ。

いまや多くの仕事が実際にはなにも行なっていないにもかかわらず、手段を効率化するという名目で正当化されていることは、疑いようがない思う。だが、効率化に注ぎ込まれる膨大な労力と、実際に節約される労働力、後者の方が大きいと本当に信じられると言うのだろうか? なにをどう見積もっても、僕にはそうだとは信じられない。

結局、僕の言うことに反論する人は、前者と後者をごちゃ混ぜにして議論を有耶無耶にすることしかできない

つまり、支離滅裂な議論を展開してでも、この社会を正当化しなければならないと感じているのだ。

なぜこんなことが起きるのだろうか?

「いまの社会がこういう仕組みなのは、それ相応の理由があるものだ」と信じ込むことが、一端の大人の条件であると、僕たちはいつしか納得させられていた。

そして「なんでこんな仕組みなの?変えればいいじゃん?」と疑問を呈することは、自分の知識不足と愚かさと露呈する子供っぽい行為だとみなされる(その反面、常識を疑え!という教条も同時に唱えられているのは笑える。実際に疑うようなことを発言すれば、即座に耳を傾けるに値しないゴミ扱いされるというのに)。

この風潮は様々な別の風潮に由来すると思うが、代表的なものを挙げるとすれば自己責任論だろう。社会のシステムを批判する人は「自分が上手く金を稼いでいないからやっかみを言っているだけだ。文句を言うなら努力して金稼げよ」と批判される。

社会を批判している人が明らかに金を稼いでいるとすればこの反論は通用しない。その場合は「底辺の味方のフリをして金を儲けている」という陰謀論にすり替えられる。

いずれにせよ、現状を維持するための道徳が、十分に社会に浸透しているのだ。とある人が「道徳のブロックチェーン技術」と言っていたが、そういうメカニズムが社会に働いている。

そろそろ「じゃあ、代案を出せ」という反論が聞こえていそうだ(ここまでの議論に付き合ってくれる人がいればの話だが)。

僕はデヴィッド・グレーバーの流儀に習って、そんな挑発には乗らない。代案というものは、反論されるために存在するものなのだ。未来が確実でない以上、代案にはなんらかの危険性が存在する。つまり、反論の余地がない代案など存在しない

反論を許せばどうなるか? 周囲に「現状の方が好ましい」と印象づけることができる。現状が問題だらけであったとしても、少なくとも成立はしている。代案は成立するかどうかすら未知数だ。ならば、現状の方が好ましいと思わせるのは簡単なのだ。

僕がやりたいことは、「問題を認識させること」。つまり、社会全体で見て見ぬフリをしてきた問題を、社会全体の前に剥き出しで提示することだ。そして、問題が存在することを前提に議論することだ。あとは勝手に議論すればいい。

議論には3種類ある。

1つ目は問題があることが前提となっているうえに、その問題がなんなのか共通理解がある議論。これは有意義だ。

2つ目は、問題があることは前提となっているものの、その問題がなんなのかよくわかっていない議論だ(格差問題の議論って一体なんについて語っているの?)。これは不毛だが、喧嘩にはならない。

3つ目は、その問題が存在するかどうかについて言い争っている議論だ(気候変動は起きているのか?起きていないのか?)。これは不毛である上、喧嘩になる。

世の中で行われている議論はたいてい2つ目か3つ目だ。

僕は1つ目の議論がしたいのだよ。

さて、ここまでで僕はこの社会にどんな問題があるのかを明らかにしたつもりだが、もっと大きな問題があるとすれば、ほとんどの人は僕のテキストに興味を持たないということだ。有名な学者が書いた本すらほとんどの人が読まないというのに、そこらへんのホモ・ネーモが書いた文章なんて、誰も読まないダイレクトメールと同じだ。

それでも僕は語ることをやめない。子供っぽいまま生きて、人類を幼形進化させるのだ。

幼形進化という考え方は、僕のイデオロギーを尤もらしく粉飾するのに使い勝手がいいので、僕は気に入っている。

一般的な言葉とは言えないのでリンクを貼っておこう。たぶん誰も読まないと思うが(そもそも参考リンク的なものは誰も読まないものなのだ。僕もこれを読者の理解を深めるために貼っているわけではない。僕の主張が第三者によって裏付けられているという尤もらしさを演出するために貼っているのだ)。

こうでもしなければ、ホモ・ネーモの書く文章など、権威付けができないのだ。

あなたが真実を語っても、誰にも理解されないだろう。あなたが権力者や有名人でないのなら。(スティーブ・ジョブズ)
誰かに批判される言葉の方が、世界にとって価値があるものです。(マザー・テレサ)

僕はどちらかというと手段を選ばないタイプだ。嘘も平気でつく。こんな風に有名人の名言を捏造することだって厭わない。

さて、話があっちこっちに進んでしまい、全くもって「非効率」な文章が仕上がってしまった。結局やりたいことをやっていれば非効率なのだよ。

クソ食らえ「効率」。

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1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!