おばさんと鉢植えと嘘

不思議な出来事があった。

夜、家に着くと、見知らぬおばさんが僕の家のインターホンを鳴らす瞬間だった。

妻が玄関に現れて、話し始める。なんともタイミングの悪いときに帰ってきてしまった。

どうやらそのおばさんは、ポスティングのバイトをしていて、昼間僕の家に投函したときに、小さな鉢植えを割ってしまったらしい。

割った瞬間は家が留守だったから、夜になってそのことを改めて謝りにきたというのだ。

ちらっと脇を見る。本当だ、割れていた。妻も気づいてなかったらしい。

「そんな、もう‥ぜんっぜん! 大丈夫ですから! むしろご丁寧にすみません‥」

咄嗟に、妻は応える。その鉢植えを世話しているのは僕なのだけれど、まぁ僕も同じ気持ちだった。

「そんな‥弁償させてもらうか、同じものどこか売ってたら買ってこようと思っているのですが‥」
「いやいや、そんな、大したものじゃないですから!!」
「そんな‥本当によろしいのですか?」
「ほんと、お気になさらず!」

結局、おばさんは手土産を用意してくれていた。収まりがつかなかったので、ひとまずそれは受け取って事なきを得た。

おばさんが帰った後、妻は「わざわざ、来てもらわんでもええのになぁ‥」と僕に話す。僕は「せやなぁ」と返答した。

でも本当にそうではないことを、僕は知っていた。

仮にそのおばさんが謝りにこないで、僕が鉢植えが割れているのに気づいたら、どうなっていただろうか?

きっと、同じ気持ちではなかった。

「誰じゃい! 大事な鉢植えを割った輩は!!? 出てきて土下座せんかい!!」

そんな気持ちになっていたはずだ。

「わざわざ大丈夫やのに‥」というのは、あくまで謝罪に来てくれたから結果的に出てきた言葉だ。謝罪そのものがなければ「謝りに来い!」という気持ちになっていたはずだ。

改めて考えると、言葉って不思議だ。

謝罪をして、「謝罪は必要ない」と言われる。でも実際、その瞬間までは謝罪が必要だった。当たり前の日常風景ではあるのだけれど、これを難なくこなしているのは、僕たちがこの社会の不文律を理解しているからだ。

未来の歴史家が律儀に我々の日常会話を分析しようとしたとき、果たしてその裏側にある不文律に気づくだろうか?

発せられた言葉だけを読み取っても、そこでなにが起きているのかは理解できない。発せられた言葉なんて、ほとんどの場合、形式に過ぎない。

それなのに、言葉を発するという行為は、過大評価される。発せられた通りに現実が成り立っているわけではないというのに、発せられた通りに現実が成り立っているかの如く、僕たちは振る舞う。妻自身が、自分の発した言葉を信じきっていたように。

鄧小平は市場経済を導入して、中国を毛沢東の沼から解放した英雄かのように扱われていたけれど、最近は、すでに民衆達の中で常態化していた闇市場にお墨付きを与えたに過ぎないという解釈が認められている。

それでも長らく、言葉をそのまま受け取って、鄧小平が新しい時代の出現を全てコントロールしたかの如く、評価されてきた。

言葉がそのまま解釈されていたのだ。たいてい政治家って、そういう仕事だと僕は思う。

なんだか話が飛躍してしまった。まぁいいか。

とにかく言葉って不思議だということを、改めておばさんに教えてもらった。

鉢植え、新しいの買いに行こう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!