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「頭の良さ」についての雑多でダラダラと続く考察

頭が良いのか、悪いのか。そのことがここまで取り沙汰された時代は過去になかったのではないだろうか?

「頭が良い人の特徴」といった動画はしょっちゅうアップされ、再生される。


「頭のいい人」をタイトルに冠する本は山のように出版され、よく売れる。


子育ては「頭のいい子」を育てれば成功とみなされる傾向にある。

子ども向けのおもちゃや教材、塾の売り文句は「脳を育てる」とか「論理的思考力を育てる」とかそんなものばかりだ。よくわからない東大教授や松丸亮吾、藤井聡太、芦田愛菜あたりのコメントがつけられて、あたかもこの教材を買えばあなたの子どもは頭が良くなって彼ら彼女らのように成功しますよ、と言わんばかりである。

さて、当然のごとく生じる疑問はいくつかある。そもそも頭の良さとは何を意味するのか? 頭が良くなって何かいいことがあるのか? なぜここまで頭の良さが取り沙汰されているのか? なぜ人々は頭が良いことは無条件に良いことであると信じて疑わないのか?

1つ1つ考えていこう。

■なぜ「頭の良さ」は、学歴や成功で測れないのか?

まず、社会の前提には「頭が良ければ経済的、社会的に成功するはずである」という考え方が通底しているように思われる。このことに異論はないだろう。

もちろん、頭が悪いのに成功している人や、頭が良くても成功しない人がいることは誰もが知っている。だがそれは「頭が良い=成功」という基本的な原則から逃れた無視できるレベルの例外としてみなされるケースの方が多い。

だったら、「頭の良さとはなにか?」などと議論する必要はなく、端的に年収や資産、あるいはなんらかの社会的成功を「頭の良さ」の絶対的な尺度とみなせば良いように感じるが、そうならない。

なぜなら、多くの人は社会的に成功をおさめていない(この点は「成功」の定義上、間違いない)にもかかわらず、自分はそこそこ頭が良いと感じている(この点は、後ほど議論する)からだ。つまり、自分自身が例外の当事者であるがゆえに、完全に「成功」という尺度で決定されることに抵抗があるのだろう。

そして、ここのニーズに応えるのが、先ほどの動画や書籍である。そこで挙げられた頭の良い人の特徴を見て、人々は「うんうん、自分は○個当てはまっているから頭の良い人間なんだな…」と頷く。そして、自分は本来、成功するべき人間であるにもかかわらず、なんらかの不運によって成功から遠ざけられたのであるという自己認識を獲得することができる。

一方で、自分以外の他者については、概ね成功という尺度で頭の良さを測ることができると考えている。だからこそ、子育てにおいては「頭の良さ」をとことん重視する。自分は運悪く例外となってしまったものの、原則としては頭が良くなれば子どもは社会的に成功するのだから。

そして、おそらく親は子どもの成功という栄光が自らに逆輸入される結果も薄らと期待している。自分は不運にも成功できなかったが、頭の良い子を育てることができたなら、その結果をもってして、自分も頭の良い親であることが証明される、というわけだ(もちろんここまであからさまな親はいないだろうが)。

さて、それでは「頭が良い=成功」という原則はなぜ生まれたのだろうか?

格差の歴史を描いたピケティ『資本とイデオロギー』によれば、前近代の社会では、能力が経済的成功に欠かせないという考え方は今ほど主流ではなかったらしい(特にヨーロッパの話ではあるが、世界的にある程度共通の傾向があると思われる)。むしろ当時は、「資本が富を生み出す」という考え方の方が強かったようで、「社会を発展させるために教育に力を入れる」という発想は頓珍漢なアイデアとして人々の目に映ったという。いわゆる財産主義の時代である。

ただし財産主義は、富が富を生むというイデオロギーの仕組み上、持てる者がますます富み、持たざる者はますます貧しくなるという運命から逃れられない。そのことに不満を感じた人々によってフランス革命は巻き起こされ、あれよあれよといううちに、能力主義の価値観が蔓延した社会へと移り変わった(その過程についてはピケティの著作を参照してほしい)。

だが、実際のところフランス革命は格差を拡大させる結果にしかならなかったし、能力主義(を自称する)社会であっても、生まれ育ちによって将来の収入が大まかに決定されることは周知の事実である。それでも公式のイデオロギーが転換したことは1つの革命であった。なるほど、格差があることは誰しも承知している。アホのボンボンが豪勢な暮らしを満喫することがあることも知っている。それでも、人々は「頭の良さ」をもってすれば成功への扉が開かるという、実力主義のイデオロギーを律儀に信じ込み、子どもをインターナショナルスクールに通わせ、有名大学に入学させようとする。

では、「頭の良さ=学歴」なのか? これに関しても人々はアンビバレントな考えを抱かざるを得ない。人々はある程度、指標としての学歴を受け入れているが、学歴だけで頭の良さを判断されることには抵抗する。なぜなら「高学歴」という言葉の定義上、多くの人は高学歴では無いにもかかわらず、自らのことを頭が良いと考えているからである。

さて、ここまでの議論で得られた頭の良さの定義は、ひどく漠然としたものである。

  • 頭の良さとは社会的な成功を左右する素養ではあるものの、それだけでは判断できない。

  • 頭の良さとは学歴で大まかに判断できるものの、それだけでは判断できない。

漠然とするのは明らかに「それだけでは判断できない」の所為である。ではなぜ「それだけでは判断できない」のか?

先述の通り、多くの人は高学歴ではないし、成功もしていないが、自分のことを頭が良いと思っている。これは一体どういうわけか?

そのことを理解するためには、「自分は頭が悪い」と感じている状態が、どれだけ難しいかについて考えを巡らせるべきだろう。


■「頭が悪い」という自己認識はなぜ難しいか?

そのためには、まずは「あの人は頭が悪い」が何を意味するのかから議論をスタートしたい。

相手の言動が的外れのように感じ、かつ言動の裏側に存在するはずの思考がおそらく頓珍漢なのであろうと推察したとき、人は「あの人は頭が悪い」と判断する。

ならば「自分は頭が悪い」という状態は、自分の言動が的外れであり、それをコントロールする思考も頓珍漢であるという状態が、一定期間維持されていることを意味する。このようなことは、ほとんど起こり得ない。

なぜなら、「こんなことをしなくてもいいのに」とか「こんなことをしても意味はないのに」と思いながらその行動を続けるのは極めて難しいからである。

もちろん僕は上司から無意味に押し付けられた資料作りについて見落としているわけではない。確かに人はこういったブルシット・ジョブは意味はないと感じている。しかし、それを拒否すると会社をクビになったり、出世できなくなったりする可能性があるため、その行動には否定的ながらも「意味」があると考えることはできる。つまり、まったく頓珍漢というわけでもないのだ。

これはあらゆる行動に適応できる。例えば、格安スマホではなく月1万円近く払ってdocomoやauといったキャリアを契約している人に対して「頭が悪い」というレッテルが貼られるケースがある。だが、その当事者といえば「格安スマホは電波が悪いから」とか「ポイントがつくから」とか「いまは変えに行く時間がないから」とか、なんらかの理由づけをすることで「自分は頭が悪い」という自己認識を回避するのが普通だ。

自分は馬鹿だから、容易に別の選択をとれる状況にあるにもかかわらず、無意味に金を垂れ流している」と考え続けているdocomoユーザーやauユーザーはおそらく存在しない。

このように見ていると、「頭の良さ」とは合理性に基づいた素養である考えられる。合理性とは、自分が行動をとることに対する説得力のある理由を思い描く能力や、あるいは行動しないことに対する説得力のある理由を思い描く能力である。

人間にとって、理由を思い描かないでいることは難しい。3歳の子どもですら、あれこれと理由をつけながら行動をするものである(ご飯を食べたくないときに僕の息子は「疲れたからもういらん」と言う。その後、元気に遊びまわるのだが)。しかし、大人からすれば馬鹿馬鹿しいその理由も、本人からすれば大真面目だ。

つまり合理的でない人などいない。3歳の息子ですら、自分は頭が悪いだなんて思っていないのである。

一方で、他者の脳内でどのような思考が行われているかはわからないし、いちいち想像を巡らせる人も少ない。それゆえ他者の的外れな行動をみれば即座に他者の脳内では頓珍漢な思考が展開されているという結論に到達しやすい。だからこそ周りがバカに見えるのである。

「自分は学歴がない」とか「因数分解できない」とかそのような自己認識は容易いし、それをもとに「俺って馬鹿なんだよなー」と口にする人は多い。しかし、真に重要な事柄について自分は的外れな思考と行動を行っていると考えながら生きていくことは難しい。そうなってしまった人は、即座に新興宗教に支配されるなど、特定の権威にどっぷりはまり込むことになり、自分の意思決定全般を手放そうとする。それができなかった場合は死を選ぶだろう。


■なぜ社会的成功に必要な能力は「頭の良さ」なのか?

ここまでの議論をまとめよう。

現代は能力主義社会=頭の良さで成功が(概ね)決定する社会とみなされていて、自分の子どもには頭の良さを身につけさせようとする。しかし、多くの人は高学歴も成功も手にしていないにもかかわらず自分のことを頭が悪いとみなすことは極めて難しく、その結果、自分は能力主義社会で不運にも成功できなかった例外的存在であるとみなしている。そして、自分が例外であることを証明してくれる(ように見える)動画や書籍を見て、自分が間違っていないことを確認する。

ここまでで、無批判で見落としている前提が1つある。それは社会的成功に必要な能力=頭の良さという前提だ。

本来、能力という言葉は多義的である。例えば100キロのベンチプレスを持ち上げる能力や100メートルを10秒代で走る能力など、必ずしも頭の良さと関連するとは限らない能力はたくさんある(チンパンジーならベンチプレスを余裕で持ち上げるだろうし、チーターはウサインボルトより速いわけだが、頭が良いとみなされることはない)。あるいは、何も考えずに黙々と玉ねぎをスライスすることやセーターを編むのも1つの能力である(これらの能力にまったく知的能力が必要ないと言いたいわけではないが、比較的必要ないと認識されていることは間違いないだろう)。

しかし、社会的成功に必要な能力の中には、これらの身体的な能力は含まれない傾向にある

これ自体、当然の帰結というわけでもあるまい。人よりも重たい荷物を運べる能力があれば、引っ越し屋として重宝されるし、玉ねぎのスライスが早ければレストランや学校給食の調理室で活躍できる。力持ちであることが社会的成功の欠かせない要素である社会は、想像できなくもない。しかし、僕たちの社会では「頭の良さ」という能力だけが社会的成功にとって決定的に重要であるとみなされている

なぜか? その理由は、社会的成功を測る基準である富や収入、金などの性質に由来すると考えられる。

そもそも富とはなんなのか? それは他者を生産力として動員する能力を意味する。金を持っていれば人を雇用して工場で働かせることができるし、Uber Eatsを使えば、調理や運搬という手間を全て他者の生産によってカバーできる。椅子がほしいと思ったら、自分で切り出して加工することなく、誰かが作ったものを買う。

社会的に成功しているということは、富を多く所有しているということを意味する。それはつまり、他者を生産させることが可能な量と、自分を生産力として誰かに差し出す量を比較すれば、前者の方が多いということを意味するわけだ。

そして生産とは身体を伴う動きである。頭で考えるだけでは野菜は生まれないし、料理は運ばれてこない。誰かが身体を伴って行動することで初めて生産は行われる。ゆえに、富を多く所有しているということは、自分は比較的身体を動かすことなく、他者の身体を動かす能力を有しているということを意味する。

さて、これは公式のイデオロギーが財産主義だった時代だったなら、なんの問題もなかった。なぜなら、本人が身体を動かすことなく富によって富を生み出すことが(少なくとも公式のイデオロギー上は)正当化されているからである。一方で、公式のイデオロギーが能力主義となった現代では、なにもせずして富を所有している人がいるという事態は都合が悪い。しかし、明らかに富を所有している人は身体を動かしていない。ならば、身体ではなく知的能力によって富を生み出しているのだというロジックが必要だった。

もちろんここまでの説明は穴だらけだ。僕は経済を完全なゼロサムゲームかのように描いてきたし、知的生産の全てがまったく必要ないブルシット・ジョブであるかのように描いた。しかし、人間の身体的な動作がなければほとんど何も生み出されないということは紛れもない事実である。そして、富の大半は身体的な動作のご褒美によって分配されたわけではない。この大まかな傾向については間違いないはずだ。その結果「頭の良さ」という知的能力が仮想的に導入され、「頭の良さ」によって富の所有が決定されているというイデオロギーが蔓延した。そして、自分は富の所有にふさわしい人間であると思いたい人々が、「頭の良さ」について延々と議論をするようになった。


■「頭の良さ」の定義を転換する

さて、ここまで世間一般に流布する「頭の良さ」について分析してきた。それは「富の獲得につながる傾向にあるなんらかの知的能力」という意味であった。

しかし、みんなが富の獲得を主眼において能力開発を行う社会は、明らかに良い社会ではない。不毛な搾取合戦が繰り広げられるからだ(現にそれが今起こっている事態である)。

だったら、富を獲得した人を「頭の良い人」と誉めそやしたり、頭のいい子どもを育てて金持ちにさせようとしたり、そういう営み全般を辞めてしまう方がいい。

そのためには? 「頭が良い」の定義を転換する必要がある。

では、僕が提案する新しい頭の良さの定義を、バカの定義から説明していこう。そしてその定義が、社会を優しくしていくであろうことを説明していこう。


■新しいバカの定義

僕は「バカとは、そこら中にバカを見出す心に宿る」と考えている。

先ほど、自分の脳内の思考プロセスは簡単に辿ることができるのに対し、他者の思考プロセスは簡単には見えないことを指摘した。だからこそ、人は自分自身を合理的に判断する頭のいい人間であると容易に結論づけるのに対し、少しおかしな行動を取る他者を見ただけで頭の悪い人間であると烙印を押す傾向にある

当たり前だが、人には様々な事情や価値観がある。それは必要なら周りに説明するものの、いちいち全員に説明することはない。頭が悪くないのであれば、そのことを理解していて、「なんかわからんが、まぁ事情があるんやろ」と受け流す。しかし、理解できない言動を見た途端に「頭が悪い」の烙印を押す人もいる。

彼は、他者の言動がなぜ頓珍漢に見えるのかを理解していない。他者の言動が頓珍漢に見えるのは、自分とは異なる価値観を持っているからであり、違う事象を見つめてきたからである。

価値観とは、前提とも言い換えられる。

人は誰しも、なんらかの前提を置く。その前提とは「神のために生きる」「コスパこそ正義」「セックスこそが人生の喜び」「ブランド品こそ人生の目的」「金稼いでナンボ」「動物の権利を守りたい」「ディズニーランドに行きたい」「スク水こそ至高」など様々だが、いずれも究極的には根拠はない。そしてその前提から論理的に思考し、なんらかの合理的行動を行う。

プロセスとしては以下の通りだ。

1.価値観→2.合理的思考→3.言動

例えば僕はスク水が好きで、スク水専門雑誌をコレクションしていたことがある。この場合はスク水が好きという前提があり、その気持ちを満たすために専門雑誌を買うというプロセスを論理的に思い浮かべ、実際の購入という合理的行動を行った。

これを頭が悪い人が見れば、「は? スク水とかなにがいいん? んでこんなもんに金使ってるん? 頭悪いわー」となる。

しかし、頭が悪くない人からすれば「なるほどスク水が好きなのだな‥ならば雑誌をコレクションしたい気持ちもわかる」となるし「スクール水着カフェってのがあるんやけど行ってみたらどう?」みたいな話もできる。彼自身がスク水マニアでなくとも、「スク水が好き」という気持ちを一旦受け入れることができるのだ。

頭が悪くない人は、自分の持っている価値観も絶対的なものではないことを認めている。そして、自分の価値観を捨てる必要はないし、他者の価値観に同意する必要もないものの、多様であることそのこと自体は受け入れる。そしてその上で、他者がその価値観を前提としてなんらかの合理的な決断を下していることを理解している。

しかし、そうではない場合。相手が馬鹿であると感じていたならどうか? 価値観を正さなければならないとか、合理的な思考を教え込まなければならない、という説教心が芽生えてくる。

さて、この説教心を持つ人にも2つのパターンがある。「価値観を変えなければならない」と感じている人と「合理的思考を教え込まなければならない」と感じている人の2パターンだ。

1.価値観を変えたがる宣教師バカ

前者の場合、人によって価値観が異なることを認めていて、相手が合理的思考の欠如によってではなく、価値観の相違によって、的外れな行動をしていると理解している。以下のプロセスで見れば「1」の違いが「3」の違いを生んでいるという認識だ。

1.価値観→2.合理的思考→3.言動

ここで「人それぞれやから」ではなく「その価値観はおかしい」と攻撃する人を宣教師バカと名付けよう。宣教師バカは他者の価値観を誤りであると感じていて、自分の価値観が正しいと信じている。しかし、同時にそうではない価値観が存在することそのものは認めている。その点で次のタイプのバカよりは救いようがある。


2.合理的思考を教えようとするカルトバカ

2つ目のパターンは「合理的思考を教え込まなければならない」と考えるパターンだ。この人は、自分の信じる「1.価値観」は自明の事実であるにもかかわらず「3.言動」が的外れなのであれば「2.合理的思考」が欠如しているのだと結論づける。

つまり自分の価値観が、単なる価値観にすぎないことを理解していないのだ。

例えば僕は車を所有しておらず、外出するには電車を乗り継いで行くことになり、必然的に歩く機会が多い。だが僕はそもそも車が嫌いだし、歩くことを避けるべき苦行だとは感じていない。むしろ歩きたい。その前提から合理的に判断した結果、車に乗らないことを選択している。

しかし、「歩く時間は少ければ少ないほど良い」という価値観が絶対的な事実だと感じている人が見ればどうか? 僕は、なにがなんでも車を所有すべきという合理的結論は明らかなのにもかかわらず、合理的思考の欠如によって車を所有していないバカということになる。

このような攻撃を行うタイプをカルトバカとでも呼ぼうか。要するに自分の価値観を絶対視した結果、周りがバカに見えるバカである。


■権力とは、バカである

2人が対等の立場であったなら、おそらく説教は失敗する。僕がAV女優のセックスをオカズにする友達に対して「いや、スク水やろ!」と説教したところで、彼の行動を変えられるわけではない。

しかし、僕が「AVでシコる奴は左遷な」と発言する権限を持つ権力者であったなら、説教が成功する可能性が高い。あるいはピストルを持って常に相手を監視していた場合でも、全く同じ結果となる。

この結末は決して公正な議論の結果ではない。権力による価値観の押し付けである。しかしあたかもそれが自分の価値観の正しさや、合理的思考の正しさを証明するものであるかのような印象を与える。

そして、相手が元々持っていた価値観について思考を巡らせるようなことは一切なくなり、ますます僕は自分の価値観の正しさを信じ込むことになる。そして僕はますますバカになる

僕がバカになればなるほど、権力による支配は強化されることになる。なぜなら僕は「僕は賢く、周りはバカ」と思っているのだから、僕が周りに対してあれこれ命令しなければならないし、部下が勝手に判断して行動することを止めなければならないと感じるからだ。

そして、バカとバカのぶつかり合いこそが戦争だろう。価値観を押し付け、命令をしても相手が聞き入れてくれないという状況に慣れていないバカが隣り合っていて簡単に引っ越せないのであれば、殴り合いの喧嘩をするしか選択肢はない。


■まとめ

ここまでのバカの定義を裏返せば、頭のいい人ということになる。相手の価値観を理解しようと努め、相手にも合理的思考があることを認めている人のことだ。

頭のいい人は、わざわざ権力によって周りを支配することはない。それぞれの価値観を追及することが、それぞれの幸福なのであると、理解しているのだから。

もちろん、利害がぶつかることもある。だが頭のいい人は自分の価値観が絶対的ではないと感じているため、お互いの価値観を明らかにした上で議論をし、なんらかの妥協を見出すことが可能となる。

頭が悪ければそうはいかない。価値観の正しさを主張し合い、相手がバカだと罵り合い、終わりのない議論を繰り広げることになる。それが行き着くところまで行き着いたのが戦争である。

頭のいい人が増えれば、理屈の上では権力は消え去り戦争も消える。いいこと尽くしである。

先ほど富とは他者を動員する力だと書いた。これはそっくりそのまま権力と言い換えられる。世間一般の「頭のいい人」の定義は権力の所有にまつわる能力であるのに対し、僕の定義は権力の放棄を意味する。つまり、奇しくも真逆なのだ。

真逆への価値観の転換は難しい。しかし、相手の価値観を理解する人を「頭がいい」と感じることはさほど常識はずれというわけでもあるまい。むしろ、しっくりくるのではないだろうか。

相手の価値観を理解するというのは、言い換えれば興味を示すことである。興味の範囲が広いということは、人の価値観だけではなく、世界の多様な事象についても知ろうする可能性が高い。結果として幅広い知識と、他者に対する理解、権力を押し付けない慎ましさを兼ね備える人物になる。

めっちゃ頭のいい人ではないか。

そういう人に、僕もなりたいし、あなたもなりたいのではないだろうか。そういう人で溢れかえったなら社会はきっと楽しそうだ。

議論があっちこっちに行ってしまって、頭が悪そうな構成になってしまったと反省している。しかし、僕がこうしたのはそれなりの事情があってこうしているわけで、僕に合理的思考が欠如しているわけではない。

頭のいいあなたなら、きっとそのことを理解してくれるはずだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!