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広告宣伝について【アンチワーク哲学】

※三色団子さんのつぶやきから始まった記事なわけだが、実を言うとコメント欄で解決はしている。が、他の方々のためにもそういう観点はカバーしとかないとなぁと思って、詳しく書くことにする。

※いきなり本題から読みたい方は、区切り線までスライド推奨。

以下が三色団子さんのつぶやきである。

飛び込み営業やら宣伝広告やらブルシットな労働を撲滅する(それだけじゃないけど)革命を起こそうとするチームが、革命を起こすためには人の目に触れなくちゃいけなくて飛び込み営業や宣伝広告について議論してるの、何かアイロニカルで辛いな…

いや、これは無人島の穴掘りとしての“政治活動”じゃない、世界を変える正真正銘の政治的な活動なのだ、とも思う反面、何かどこか違和感が拭えない

だからといってじゃあお前、多くの人の目に触れるための営業をおいて他に革命を成就するいい方法があるのかよと言われれば、無いのだ。それに、営業が悪なのではなくて、金の支配に基づく労働が悪なので、自発的な戯れによって行われる営業は…いや…うーむ…どうだろう…

出かけるのに靴を履くのを嫌がる人はいないので、営業活動も靴を履くようなものだと思えば何ら苦はないのだ

そうだとすると私が抱く違和感は営業そのものの矛盾によるものではなくて私の個人的な経験に基づく営業嫌悪によるものかもしれん……

軽く文脈を説明しておこう。

三食団子さんは、まとも書房の立ち上げプロジェクトに参加いただいているのだが、その中で僕たちは本をどうやって売り出すかを議論している段階にある。しかし、アンチワーク哲学は営業活動や広告活動などを富を引き寄せるために行う「政治活動」であり、社会にとって少なければ少ないほどいい、という主張を行っている。そのため、ここに三食団子さんは矛盾(とまではいかないなにか・・・)を感じたようだ。

それに対して僕はコメントをした。

アンチワーク哲学は「社会にとって必要or無駄」という価値基準を設定するつもりはないんです。極論「パン作りすら無駄(麦粥の方がエネルギー効率が高いから)」ということになり、「必要or無駄」の価値を押し付けることは「俺が気に入るか気に入らないか」という意味であり、それを決定する権力者(毛沢東みたいなやつ)が必要になる。だからこそ、人々の「好きなこと、やりたいことをやる」を重視するわけです。

営業の問題は「こんなの売りたくない」「こんな営業は迷惑だろう」と思ってもやらざるを得ないこと。逆に「これをみんなに知って欲しい!」という行為は本人の意志に基づいていて、一概に営業=労働とは言えない。

・・・っていうのがアンチワーク哲学的解釈でした!

そして、それに対する返答が以下だ。

そう!まさに、理屈の上ではその同じ結論に至っていたのです。が、自分の中に、何かこう身体的な抵抗感みたいなものがあって、それがどこから来るのか分からなくて、深夜に一人で歯切れの悪いトーンでモゴモゴと呟いていたのです。恐らくは、営業そのものが持つ何かのせいなのではなくて、私が個人的に今までの経験から培ってきた苦手意識がモゴモゴさせているだけなので、一人でモゴモゴして内省を深めておこうと思います。外に出たくて靴を履く営業に罪はないのだ…

・・・という内容をより詳しく説明したのが、以下の記事である。
(前置きが長くなりました。さーせん・・・)



ベーシックインカムによるブルシット・ジョブ撲滅を訴えることと、「広告やブランド品づくりは無駄だからやめて、みんなで畑仕事など役に立つことをしようぜ!」と言うことはイコールではない。この点は強調しておきたい。

「役に立つ」という言葉の意味は一般的には「生命維持」が想定される傾向にある。特にエッセンシャルワークとブルシット・ジョブの対比という文脈においては、そうなりがちである。

僕はそもそもこの「役に立つ」の意味を「生命維持」ではなく「楽しいこと」「好きなこと」の方にフォーカスすべきだと考える。

そもそも、食べ物をつくる仕事は「役に立つ(≒生命維持に貢献する)」とみなされる傾向にあるわけだが、現代においては餓死する人よりも食べ過ぎで死ぬ人の方が多い。それに、キュウリに塩をかけてポリポリ食うのと、ぬか漬けにして食うのとでは栄養的に大差がない(知らんけど)わけだが、後者には膨大な手間がかけられている。つまり「糠漬けづくりはブルシット・ジョブじゃないのか?」と問いかけることは理論上可能なのだ。

トラックや橋もそうだ。「本当に必要なものを運んでいるのか? どうでもいいものを運んでいるのではないのか?」といった疑問はいくらでも生まれてくる。そしてその議論について、全人類が納得する基準を設定するのは不可能だろう。

もしそれをやろうとするなら、「広告? ダメ! 浅漬け? セーフ! 糠漬け? うーん、ぎりアウト!」みたいに決定する人が必要になる。それは気まぐれに中国の国土を禿山に変えた毛沢東のような存在だろう。

要するに各々が好きなことをやればいいと僕は言いたいのだ。そのことについてとやかく言う権利がある人はいない。「ゲームの広告詐欺なんて無駄だからやめろ」「不安を煽り立てて保険を売りつけるのはやめろ」などと口を出す必要はないのだ。本人がもしゲームの広告詐欺を心から重要なものだと考えているのであれば、好きにすればいい。

ただしそれは現状維持を意味しない。本当に自由な個人が「こんなもの売れるわけがない」とか「こんな営業したら迷惑だろうなぁ」と思いながら営業をやるとは考えづらい。

ここで意見が分かれるのは人の善性を信頼できるかどうかだろう。ベーシックインカムによって自由を手にした個人が、心の底から独居老人のなけなしの年金を羽毛布団の訪問販売によって毟り取ることを渇望するのか、しないのか?

そんなことをする奴はほとんどいないだろう、というのが僕の言いたいことである。

逆に、「これは多くの人に知ってもらうべきだ!」というエネルギーに突き動かされた営業なら十分にあり得るだろう。それは良質な商品なのか、これまでにない画期的な商品なのかわからない。少なくとも、グローバルサウスの未就学児に奴隷労働をさせて作った商品ではないはずだ。

ベーシックインカムのない社会では金の追求を余儀なくされる。それゆえ、その商品を売ることによる社会的影響が気にされることはない。しかし、安く仕入れて高く売る必要が薄まった社会においては、いままで目を逸らしていた現実に目を向ける余裕が生まれる。グローバルサウスの未就学児に奴隷労働をさせることを心の底から渇望する個人や、伝統的な暮らしを続けていた原住民を追い出して森をプランテーションに仕立て上げることを心の底から渇望する個人などいない。ならばこれらの問題は解決に向かうはずだ。

フェアトレードや様々なビジネスにおける規制が微妙に的を外しているのはこの点である。あたかも人間がグローバルサウスの未就学児に奴隷労働をさせることを心の底から渇望しているかのように扱うのだ。

そんなわけがない。どちらかと言えば人は他人を助けることの方を渇望する。その未就学児が目の前で泣きじゃくりながらコーヒー豆を収穫していたとしよう。スーツ姿の狡猾なビジネスマンすら、彼に鞭を打つか、食事と風呂と休息を与えるかという選択肢を与えられ、後者を選択したいという欲望に抗うことはむずかしいだろう。たとえそうすることで自分の利益が失われるのだとしても。

貢献欲といった言葉を生み出さず、人を利己的な計算機会とみなす今の社会では、このような至極真っ当な推論すら簡単には受け入れてもらえない。僕は100年後の人類がこのような態度を見たとき、「人は利己的だとかなんとかまだ言ってたんだねwwwで、ベーシックインカムを配ったら誰も働かないとか信じてたんだwwww昔の人ってほんとバカwwww」みたいな反応をすると確信している。僕たちが魔女狩りや錬金術に向ける類の反応である。要するに合理的経済人への盲信は、宗教的な妄信のレベルに達していると言いたいのだ。

話が長引いてしまったが、要するに広告や営業は今の社会では不毛な営みになっているが、自由な社会なら「人に伝えたいことを伝える」というピュアな活動に生まれ変わるということだ。どんな言葉で、どんなイラストで、人に伝えようと考えを巡らせることが楽しいことに疑いの余地はない。そこで生み出された広告が芸術作品のように人々に愛されることもあり得る(ときに、その言葉が宣伝している商品が忘れ去られて、言葉やイラストの方が歴史に残ることすらあり得るのだ。ミュシャや糸井重里のように)。

そういう世界なら僕も広告を作ってみたいし、営業してみたいと思う。なにをやっても楽しそうな世界だ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!