「知識がなければ差別してしまう可能性がある理論」の限界について

なるほど確かにそうかもしれない。部落や、LGBTQについての知識がなければ、知らず知らずのうちに傷つけてしまう可能性はあるだろう。ならば、私たちは一様に学ぶ義務があるというのは、一見するとまともな言説に見える。

しかし、仮にそれが正しいとするならば、50代のラブライバーが職場で受けている差別や、80代で大学生になった人の苦悩、重度のアレルギー性鼻炎の人が電車の中で浴びる視線、タワーマンションの上層階と下層階のヒエラルキー、ボツワナ共和国に暮らす少数民族が受ける迫害、パキスタンの高校で起きているいじめについても、学んでおく必要があるのではないだろうか。

もちろん全てを学ぶことは不可能だ。ならば、どこかで線を引く必要が生まれる。国境の外なら学ぶ必要がないのか? あるいは、人口の数%以外なら切り捨てて問題ないのか? 仮に全人類が合意するボーダーを設定できたとして、そのボーダーこそが差別ではないか?となる。

あまりにも馬鹿馬鹿しい。差別する意図がないのであれば、場当たり的に気をつけるってことではいいではないか。たまに、知らず知らずのうちに傷つけることもあるだろうが、その可能性をゼロにするのは不可能だ。嫌なら嫌と言えばいいのだ。無知ゆえの発言にイライラすることもあるだろうが、我慢するなり、釈明するなり、しろよ、と思う。別にそれくらいの経験はマイノリティじゃなくても経験するのだから、自分だけが特別だと思わないでほしい。

勘違いしてほしくないが、僕は意図せず誰かを差別したことはあるかもしれないけど、差別をするつもりはないし、自分の言葉が差別的な発言だと指摘されれば謝る。可能な限り理解を深めたいという気持ちもある。ただ「知ることこそが義務」みたいなことを言いはじめれば、僕は拒否する。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!