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肩書マウントと、暮らしと、優しさ

「私はこのような人間です」と分かりやすく説明する能力を、僕は徹底的に欠いた人間だ。

「プロのダンサー」とか「脱サラ農家」とか「イタリアンの料理人」とか「ポケモンカードマニア」とか「東大卒」とか「元任天堂の広報担当」そういう名刺代わりに差し出せる肩書がない。

哲学書を読んだりするが古今東西あらゆる哲学に精通しているわけではない。農業をやっているが週末にやっているレベルでしょっちゅう失敗している。料理も好きだが大して上手くない。作曲やラップ作りもやるが日記みたいなレベル。noteを書いているがこれも趣味。大学も中途半端。会社も無名。仕事も平凡。総じて中途半端なのだ。

だが僕は別にそれで良いと思っている。人間の価値を肩書に矮小化されるのが嫌だとか、そういうことを言っているわけではない。そもそも人に事前に価値を判定してもらう必要がないと思っている。イタリアンの料理人という肩書きがなくても、僕は誰かにピザを振る舞う。そのこと自体に価値を感じてもらえるなら嬉しいことだが、別に事前に何らかの期待を抱かせる必要はない。

もちろん、肩書は通行証として機能する。大手企業に入るためには有名大卒の肩書が必要だ。グラストンベリーフェスに出るにはグラミー賞くらい取っておいた方がいい。

歴史的には必要に応じて培われてきた生活の知恵すらも今では肩書として機能している。民族博物館に飾られて学芸員に解説させるような保護対象としての肩書だ。生活の必要に合わせて緩やかに進化していくはずの生活の知恵は、差異を固定化するマウント合戦へと発展している。

もともとは年齢を重ねることは生活の知恵の蓄積と向上を意味していたわけだが、今では肩書の獲得(あるいは未獲得)を意味するようになった。肩書さえ獲得しておけばあとは「大学くらい行っとけ」とか「積立ニーサやっとけ」とかいうセリフを吐いておけば年長者としての役割は完了する。

まぁ、クソ喰らえな風潮だ。

僕は肩書という通行証が必要な場所に行くのはやめようと思っている。誰かを必要とする人のところに行って、僕にできることをやって、それで価値を感じてもらう。そして僕という肩書がその人の中で育まれていく。そんな風にして生きていきたい。

そもそも、普通の人間というだけで様々なスキルを持っていて、様々なスキルを発揮しながら生きていることは間違いない。歯を磨くスキル。飯をこぼさずに食べるスキル。うんこを拭くスキル。電車に乗って隣町へ行くスキル。冷蔵庫を開けっぱなしにしないスキル。どれも社会に欠かせないスキルだ。

この手のスキルがどれだけ素晴らしいものか、3歳児を見ているとよくわかる。大人はいろんなことができる。そういうものに着目してもいいと思う。

肩書は通行証として有効だ。だが、肩書の素晴らしい人たちがただの人だと知ってガッカリした経験くらい誰にだってあるだろう。岸田文雄が目の前にいたら、多分ただのおっさんだ。

逆に肩書がなくてもすごい人はいっぱいいる。僕たちが暮らすのは中島みゆきの『地上の星』の世界だ。人は空ばかり見てるが地上にも星はたくさんある。

人に評価されないことは辛い。評価される方が嬉しい。だが、肩書で評価される必要はない。人が喜びそうなことをちょっとだけやってれば、勝手に評価してくれるんじゃないかと思う。

というか、僕は最近もう評価なんてどうでもよくなってきた。たぶんほぼ何をやっても僕のことを嫌いにならない人がそれなりにいると思っている。そういう人のために何かをするし、自分のためにも何かをする。評価に振り回されるのはもうやめだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!