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「大量生産品」って「奴隷が作った」って意味なんだと思う

「大量生産品」という言葉には、よく注意すべきだと思う。その言葉は本来は「大量に生産されている商品」という以上の意味はない。

それにもかかわらず「大量生産品」という言葉からは、数人のオペレーターが退屈そうに画面をチェックしておけば、あとは全て機械が作ってくれる商品であるような印象を受ける。

実際、うまい棒みたいな商品であれば、そんな風に大量生産されているのかもしれない。しかし、そうではないものの方が多い。例えば服はその代表例だ。

ユニクロの服は大量生産品だとされているが、実際のところ、中国かバングラディシュかそこらに住む貧民が古典的なシンガーミシンのようなものでせっせと縫い上げている。要するに海外ファクトリーで職人がハンドメイドしているのだ。ただ、その規模が膨大というだけであって、とことん労働集約型なのだ。

「大量生産品」という言葉は、その事実を隠す。あたかも自己分裂する分子テクノロジーや意識を持つアンドロイドによって製造されているかのような印象を僕たちに与える。

また、うまい棒のような商品は最終的な製造工程が自動化されていたとしても、その原料はマレーシアの農村の子どもたちが危険な作業の末に収穫したアブラヤシかもしれない。

人の手がこれだけかかっているのに、なぜうまい棒やユニクロが安いのか? 答えは簡単で、奴隷から搾取しているからだ。

よくよく考えてみてほしい。おそらく全く同じスキルを持っていても、日本人がミシンを使って服を作れば時給1000円になり、バングラディシュ人なら30円かそこらなのだ。それは人間の価格に差をつけていることであり、身分制であり、奴隷制とすら言える。国によって人件費に差があることや、外国人を安く買い叩いて単純作業に従事させるのは、どう考えても道徳的に容認できないと思うのだが、なぜ当然のこととみなされているのか、僕には理解できない(「ハンドメイド」が売り文句のファッションブランドは「奴隷ではない人間が作ったものですよ」と言っているのに等しい。そもそもハンドメイドではない服なんてほとんどないのだから)。

恐らく、誰もその問題についてまともに考えてはいない。あるいは、うっすらと日本人の方が優れているからだと信じ込もうとしているのかもしれない。当然そんなわけがない。所詮、ホモ・サピエンスだ。「日本は実力主義が根付かない‥」とか「もっと平等に評価してほしい」とかそういうことを言う人は多いが、実力を正当に評価するならバングラディシュ人の時給が30円であるわけがない。

そもそも、製造工程に思いを馳せる人はほとんどいない。「単純作業しかできない奴隷が作ったものだから大量生産品であり、機械が作ったのと別に大差ない」といった暗黙のイメージを持ちつつ、見ないフリをしているだけだ。

僕は別にフェアトレードを推進するNGOの人間ではない。しかしそれでも、世界に奴隷制が存在すると知ることはあまり良い気分ではない。

シーズン毎に服を買い替えて、着ない服でクローゼットをパンパンにするために、グローバルサウスでは奴隷が搾取される。マレーシアで死に物狂いで収穫されたパーム油やあれこれの原料は、その半分近くが食品ロスになる。グローバルサウスは貧困に苦しみ、先進国は華々しい繁栄を謳歌している‥わけでもなく、こんまりにクローゼットを片付けてもらって、ようやくメンタルを保っている。これがディストピア以外のなんなのか?

セール品でパンパンのクローゼットは僕たちを幸せにしない。ゆったりと娘のためにドレスを縫い上げてやるような時間こそが僕たちを幸せにする。

僕は最近、朝から小一時間かけてベーグルを焼いて食っている。素晴らしく効率的だとは思わないだろうか。生地をコネコネする時間は労働ではなく、余暇なのだ。ベーグルをスーパーで買ってきてしまえば、それはただの栄養補給であり、労働と変わらない。幸福のためには、労働は非効率で、余暇は効率的だ。

だから、奴隷に支えられた今の暮らしを捨てても、僕たちは幸せになれる。ユニクロの服も、うまい棒もいらないのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!