見出し画像

管理社会? ディストピア? ぜひお願いします

僕はディストピアちっくなSFが好きで、小説やアニメをよく楽しむ。『PSYCHO-PASS』とか『1984年』とか『華氏451度』とか『ずはらしい新世界』とかそんなのだ。

ディストピア系の物語はそれぞれ設定はバラバラなのだけれど、共通していることは「人々はその生活に慣れていること」だ。その世界に反発しようとする人はもちろんいるが、(そうでないと物語にならないのだし)彼らはたいていマイノリティで、マジョリティは現状維持を好んでいる。

それこそ死と隣り合わせの強制収容所の様子を描いた『夜と霧』(これはノンフィクションだけれども)のような生命を脅かされるレベルでもない限り、人は慣れる。なんだったら生命を脅かされても慣れる。カズオ・イシグロの『私を離さないで』なんて、登場人物たちは若くして殺されることが確定しているというのに、その運命を受け入れていた。

人間は何事にも慣れる生き物だとドストエフスキーは言ったらしいけど(出典は知らん)、僕もその通りだと思う。

この観点に関してはアンリ・ベルクソンが『道徳と宗教のニ源泉』で鋭く考察している。本能は安定的だけれど、知性を突き進めれば破壊的になるので、習慣が本能を模倣して、知性が習慣を合理化するのだ。知性の破壊的なエネルギーを現状維持するという方向に向けて、うまくバランスをとっているというわけだ。

知性という凶暴な野獣は、習慣に飼い慣らされる。

みんな大好き進化心理学的に説明すれば、燃費の悪い脳のコスト削減法が習慣ということになる。これも一理ある。

まぁいろんな説明の仕方があるが、ともかく人間は思考停止することが大好きなわけだ。現状を正当化することを、誰がやめられるというのか。

我々は決して、悪をなし得ない。
サルトル『実存主義とは何か』

サルトルが言うように、悪い状況にいると確信しながら生きることはむずかしい。知性は現状を正当化する。

事実、僕たちは今の世界に慣れている。しかし、それは僕たちの世界がディストピア小説の世界よりも素晴らしいからではない。

1万年前に生きる狩猟採集民たちにとって、僕たちが生きている世界と、『1984年』の世界を見分けるのは難しい。商品と資本に飼い慣らされて、儀式と因習に振り回されている僕らは、全く民主的ではない政治体制を民主主義だと信じ込み、効率的でない資本主義というシステムを効率的であると思い込み、ダブルシンクをナチュラルにこなしている。

そのくせ管理社会は嫌だとか、ディストピアは嫌だとか、そういうことを言ったりする。「隣の芝生は青い」というのは人間の心理としてあまりピタリと当てはまらないね。

俺の芝生が一番青い
ONE LIFE(WON LIGHT) feat.DEV LARGE/SUIKEN/NIPPS

DEV LARGEの言う通りだ。

いっそ思いっきり管理されてもいいかもしれないなぁとも思う。思考することも楽しいけど、快楽に溺れておくのも楽しい。権力に付き従うことも快楽だ。

不満足なソクラテスもいいけど、満足な豚も悪くない。どうせどんな時代が来ても慣れるさ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!