人は老いるのではなく、老いさせられる?

生物的な年齢と、社会的な年齢は違う。生物的に人は老いるけれど、それとは別のスピードで社会的に老いていく。

生物的に言えば29歳と30歳の差に、大した意味はない。たまたま10進数を採用している僕たちが、たまたま区切りの良さを見出しただけだ。

それでも、社会的には大きな断絶がある。20代には可能性が与えられるが、30代は徐々に閉ざされていく世界を生きている。すでに一定の地位や財産を確保し、人生の方向づけをある程度確定させてているべき年齢だとみなされる。

おかしいなぁ。人生100年時代のはずなのに。残り70年は、もう消化試合なのだろうか? もうすぐ30歳になろうとする僕は、運命を受け入れて、静謐な時間の流れに満足感を見出すことを社会から求められるような感覚がある(「年相応」という言葉で、あらゆる言動が封殺されてしまう)。「あれもしたい」「これもしたい」と駄々をこねるのは若者の特権であるらしい。

大抵の人は30年も生きていれば、自分の運命を受け入れる術を身につけている。つまり残り70年が予定調和な消化試合だということに合意しているのだ。

相変わらず僕はその合意を先延ばしにしている。70年もあれば、なんだってできるような気がするからだ。今から僕が相対性理論を発見したり、フランス革命を起こしたり、ハリー・ポッターを書いたりしても不思議ではないと感じている(別に社会に大きなインパクトを起こすことが人生の目的ではないのだけれど、わかりやすい表現として)。

それでもそんなことは起こりえないと、社会はみなしている(30代でデビューして、37歳で自殺するカート・コバーンを見たことがあるだろうか?)。僕にはわからない。生物学的にオジサンには何かを成し遂げるポテンシャルが備わっていないのか。それとも社会がオジサンに対して諦めるように要請するが故になにもできないのか。

僕は後者のような気がしている。ボーヴォワールが「女に生まれるのではなく、女になる」と言ったのと近い構図だ。「老いるのではなく、老いさせられる」といったところだろうか? あまり詩的な表現ではないなぁ。

そんなことを言っても、健康診断の結果を見てみれば、生物としての変化を感じずにはいられない。僕は心音がなにやらおかしいらしい。

これがどれくらいの問題なのか、僕にはよくわからないけれど、まぁ何かの間違いで死んでしまっても、僕には関係のない話だ。養老孟司が何かのインタビューで「死は二人称」だと言っていた。そのことをよく知っていたのはルフィだ。

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ルフィは笑顔で、むしろ近くにいたゾロとサンジの方が狼狽えてしまう。生き残った人たちにとって、その人の死は悲しむべき出来事だけれど、本人は悲しみごと綺麗さっぱり消え去ってしまうから、笑顔にだってなれる。

死がどこで待ち伏せしているかはわからないが、どこだっていい。僕は一歩ずつそこに向かっている。その歩数をクールビズの地方公務員に数えられて、僕のあずかり知らぬうちに意味を与えられてしまう。「20歩目ならまだ行き先は自由だ。30歩を過ぎたなら、もう選択肢は残っていないよ」と言うように。

そういえば「数えた足跡など気づけば数字でしかない」とBUMP OF CHIKENも歌っていたっけ。数字に意味を与えて、右往左往してしまうのは僕たち人間の悪い癖だ。

数字のことはもういい。残りの数字がわからないから、生まれてからカウントして意味を与えているだけだ(デスノートに出てくる死神のように、人の寿命が見えるようになったら、全く違う社会になるのだろうなぁ)。

ともかく今を生きよう。うむ、陳腐でチープな一般論だ。周りに振り回されず、自由に生きよう。これも常套句だ。

壮大な人生論なんて、とっくに先人たちが発見し尽くして、僕が主張できるコピーライトはもう残されていないのかもしれない。

それでも、社会から与えられる意味みたいなものに、多少抵抗してみようと思う。僕のことは、僕が意味付ける。年齢という意味の中に押し込められようとしたときには、全力で拒否する。

抵抗の意思を示すために、年齢を16進数で表してみようか。そうしよう。これから年齢を聞かれたら「1D歳です」と答えよう。生まれた年を尋ねられたら「ヒジュラ暦で1412年」と答えよう。最高にバカバカしい抵抗をしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!