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駐車場と効率強迫症

親戚たちとショッピングモールに出かけるとき、僕はしばしば運転手を任されるが、駐車場でいつも困難に差し掛かる。外に停めるべきか。中に停めるべきか。それが問題だ。

僕は外に停めたがる。中の駐車場は中に入っても狭くて停めにくい上に、歩行者との接触リスクも高い。結局、空きを探して右往左往した挙句、外に停める羽目になることは目に見えている。

しかし、僕が外に停めようとすると決まって誰かが口にする。「中、空いてないか見にいこや」と。

当然、それを口にする人は僕よりも運転経験のある人である(なんと言っても僕は車を持っていないのだし)。つまり、僕が想定しているリスクは十分承知しているはずだ。それなのに、中に停めさせようとするのだ。

僕は理解に苦しむ。なぜだ? 彼は本当に、そうまでして中に停めたいのだろうか?

外に停めたところで、デメリットはせいぜい2分か3分長く歩くだけなのだ。2分か3分ぽっちを節約したいがために、わざわざ膨大なリスクを引き受けようというのだろうか?

そうまでして、歩きたくないのだろうか?

僕は彼の感性に強迫症じみたものを感じてならない。「少しでも効率的に、歩かずに済むようにしなければならない!」という義務感に取り憑かれているように見えるのだ。この症状を仮に「効率強迫症」と名付けよう。

実際、効率的である必要はない。歩くだけなのだから。僕たち人間はどんな動物よりも長く歩くことができる。歩くことが苦痛であるなら、こんな風に進化したはずがない。

しかし、車という存在が、歩くことは苦痛であるという価値観を生み出した。子どもを駅まで迎えに行くため、近所のスーパーに行くためだけにわざわざ車を引っ張り出す小太り(というか大抵の場合は小太りを通り越して"太り")のおばちゃんは多いが、彼女たちも効率強迫症と考えられる。歩けば済む話なのに、わざわざガソリンを使って車を出すのだ。

それに、実際のところ車を出すのはたいして時短にもなっていない。自家用車にかかる費用を稼ぐ時間を考慮すれば、自家用車の平均時速は5キロメートルらしい(ソースは忘れた)。事実、歩くのと変わらないのだ。

それでいて「痩せたい」とかなんとか言ってヨガに通ったりするのである(そのヨガにも車で行くのだ)。馬鹿馬鹿しいにも程がある。

効率を崇めたてる風潮は根強い。本当に効率的である必要があるのか、立ち止まって考えた方がいいと思う。

僕はゲームをするとき、攻略を全く見ずに、結果的に死ぬほど非効率なやり方でクリアしていることがある。それでも見ようとは思わない。見てしまうと、効率的にやらなければならないという気持ちにさせられて余裕がなくなるからだ。

ファック効率。効率なんて嫌いだよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!