で、民主主義って良いことなの? 悪いことなの?

衆愚政治になるから民主主義はダメだという意見もあれば、独裁を防ぐためにはやむを得ないという意見もある。

この両者に共通している前提は、「賢くて、利他的な独裁者が意思決定して、未来永劫暴走しないなら、それが一番よい」という考え方だ。

そのパーフェクトな独裁者のイメージとは、たいてい自分だったりする。

そして、自称パーフェクト独裁者予備軍たちが、ツイッター上で喧々諤々、終わりのない議論を繰り広げる。

その様子を見た、別の自称パーフェクト独裁者予備軍は、「やはり民主主義はクソだ」と結論づける。

デヴィッド・グレーバーが言うには、多数決民主主義とは、強制を前提とした考え方だ。要するに、少数派のバカを有無を言わさずに従わせるための暴力装置が必要になる。

現代で言えば警察と検察と刑務所だ。会社の中でも同様で「従わないなら、どうなるかわかってるんだろうなぁ?」というのは、生殺与奪を握る会社からの社員に対する暴力だと言っていい。

この観点からすれば、僕は民主主義とやらが大嫌いだ。1人1人のニーズに配慮するつもりが、初めからないからだ。だったらもっと自由にみんなが意思決定できる状態の方がいい。自分のニーズは自分が一番よく知ってる。

そもそも僕たちは自分のニーズを表明するチャンスすら与えられない。そのチャンスがあるのは、政治献金という名前の賄賂を送る大企業の社長だ。僕は日本は株主独裁国家だと思っているよ、本当のところはね。

数年に一回、ガス抜きで投票行為をさせて、あたかも国民が政治を支配しているかのような印象を与えようとして、どうにも日本政府はそれに成功しているらしい。上手くやったよね、ほんと。

例えば15万人の国で王が1人で意思決定をしていればたぶん独裁制と呼ばれる。1億人の国を700人かそこらの貴族(政治家は貴族ということに異論ある人いる?)で意思決定していれば民主主義と呼ばれる。

よくわからない。民主主義という言葉は、誰も意味がわかっていないように見える。僕もわからない。

ついでに、最近たまに聞くようになったEBPM(エビデンスベースドポリシーメイキング)という言葉も僕は嫌いだ。ポリシー(政策)にエビデンスなんてあるわけないのに、あたかも未来は完全に予測可能であるというエビデンスを揃えているかのような印象を与えるからだ。つまりそれは反論の余地なく、未来を良くするものであるというわけだ。もちろん、そんなわけがない。ただ、政策を無理やり押し通すための口実でしかない。EBPMは必然的にPBEMになる。

剥き出しのエゴを突き合わせて、折り合いをつけていく作業が政治だと、僕は思っている。誰もエゴをむき出しにせずに、エビデンスだとか、論理だとか、道徳だとか、しらばっくれたイデオロギーで戦うから混乱するのだ。

とりあえず、民主主義という言葉の使用をやめてみるところからスタートすれば良いんじゃないだろうか。そうすれば僕たちが一体どういう状態にあるのかが、見えてくる。言葉は思考のツールのはずが、思考の代用品になっていることはよくあるのだよね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!