労働って楽しいよね(笑)
『労働なき世界』などという本を出版するくらいなのだから、あたかも僕が労働が嫌いで嫌いで仕方ない怠け者であるかのような印象を持っている人もいるかもしれない。
しかし、実のところその印象は誤りである。僕はなんやかんや、働くのが好きなのだ。
前の仕事はライターでホワイトカラーで広告業界なので、ブルシットジョブ気味な仕事だったのだが、それはそれで楽しめたのだ。取材を通じた思いがけない出会い。コアな価値観を抽出し上手く言語化できたときの興奮。鬼神の如きスピードで仕事をこなして、余裕綽々で迎える納期の達成感。そういったものが好きだった。
今の仕事は重たいものを運んだり、トラックを運転したり、ブルーカラー寄りなのだが、単純に体をハキハキと動かす躍動感や、パズルのピースをはめていくようにスケジューリングしていくスリリングさ。誰かのミスを率先してカバーする貢献感。意外と嫌いではない。
僕は金がないと生活ができない焦燥感と、それを利用して上司やクライアントに生殺与奪を握られる状況で行う「労働」こそが、諸悪の根源であると著書『労働なき世界』で書いた。そして、自らの内発的な動機で行動することの喜びで満ちた時間を「余暇」と定義した。
人は根源的に内発的な動機で行動することを好む生き物だと僕は考える。だからこそ、労働という支配の中であっても、一度その動機を自分の心に通過させて意義ややりがいを見つけて、楽しむことが可能のだ。僕だって、それができないわけではない。やれと言われたことは不愉快に感じるものの、どうしてもやらざるを得ない状況にあるなら、それを楽しむ能力を持っている(もちろん、意義ややりがいを見つけられなかった人は、自殺したり、退職代行を利用したりするわけだ)。
僕は何も「どんな仕事にもやりがいはあるから、努力すべきだ!」という意識高い系の言説を垂れ流したいわけではない。CanとShouldは違う。僕はCanだと思っているし、僕自身もCanではあるものの、Shouldとは思っていない。
強引に労働を楽しむことができるとはいえ、それを強いられることはやはり苦痛なのだ。そして、その苦痛によって環境が破壊され、資源が浪費されているのなら、こんなに馬鹿馬鹿しい話はない。
では、労働を全くやめるべきなのか? もし、内発的な動機で皆が行動するなら、きっと下手くそな詩人や、人をイラつかせるだけのパントマイマーや、イカれた科学理論を普及者で街が溢れかえるのではないか?
その理論はブルシット・ジョブ論によって否定されていて、かつ僕なりの見解もあるのだけれど、何度も書いてきたことなのでここでは触れない(要約すれば、「労働」と「作業」が混同されていて、僕たちは「労働」を嫌悪しているのに「作業」を嫌悪していると勘違いしていると僕は考えている)。
ともかく僕は、弱者男性のルサンチマンをガソリンにしてこの本を書いたわけではないということを、どうかご理解いただきたい。もっと別の使命感があったのだ。
あと、付け加えると僕はどう見ても弱者男性ではない。僕の年収は平均年収は優に超えているし、まがりなりにもマイホームを所有し、子どもを2人儲けている。現代では希少になりつつある野原ひろし的なライフスタイルを体現しているわけだ。決して勝ち組とは言えないものの、別に負け組でもない。別に僕はこのまま本なんて書かずに生きていても、そこそこ幸せになれるのだ。
だが、僕は僕のこの僥倖を、自分の努力や実力で勝ち取ったなんて微塵も思っていない。正直、運が良かっただけである。それに、どう考えても僕の裕福な暮らしはグローバルサウスや低賃金のエッセンシャルワーカーの働きに依存している。
つまり僕は、僕の裕福な暮らしを成り立たせているいろんな歪な構造をどうにかしたい。もちろん、なんやかんや楽しいとは言え、好きな時間に帰られなかったり、理不尽な要求に屈しなければならなかったりする瞬間は、これが「労働」であることを痛感させられ、僕自身も労働をやめたくなる。というか辞めたい。
それでもなお、この世界はなんとかなると思っているのだ。その根拠は本を読んでくれればいいのだけれどね。思ったよりは皆さん買ってくれたけど、百田尚樹に比べればミジンコみたいなものだ。
なんというか、僕はステレオタイプに押し込められるのが嫌いなんだと思う。とは言え、人はステレオタイプを通じてしかほとんど何も理解できないのだから仕方のないことだけれどね。
改めて、僕の突拍子もない言説を読んで理解してくれている人がいることは、本当にありがたいことだと思う。仮に批判的だとしても、それはそれでありがたい。僕は人と議論するのは結構好きなのだ。
これからもたのんます。みなさん。
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