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家族の形を考える

この前、妻がママ友軍団と居酒屋で飲み会をしてきた。

後から聞くと、そこで男や子どもの目がない場所での女たちの会話にありがちな話題で盛り上がったらしい。要するに下ネタである。

いまは月に何回セックスしているか。夫婦のどちらが誘うのか。子どもが寝てる横でセックスするかどうか。浮気の気配はあるか。

妻の話では、ママ友たちは妊活中などは義務感にとらわれながらセックスをし、子どもが生まれた後は夫への興味は一切失ったという。離婚するほど嫌いではないけれど、別に好きではない。6名ほどの頼りないサンプル数ではあるものの、妻の周りではそんな感覚が支配的らしい。

ふーん、そんなもんかなぁと思って、僕はその話を聞き流していた。後日、次のような動画を観た。日本で一夫多妻制を勝手にやっている男がいて、そこでは妻4人と子ども3人と男1人が共同生活を営んでいるという。

取材する側のキャスターやタレントたちはちんぷんかんぷんで、あれこれ質問攻めにする。主に「嫉妬しないの?」とか、そういう話である。だが、本人たちは自分たちの暮らしに満足しているようだし「なにが問題なの?」といった調子である。

さて、妻のママ友たちはとっくのとうに夫への愛情を失っている。ならば、夫の周りに他の女がまとわりついていたとしても、おそらくなんの感情も抱かないはずだ。むしろ、家事を分担できたり、子どもを気楽に預けられたり、生活費を下げられたりするメリットの方が大きいに違いない。

ならば、ママ友たちは、少し大きな家で共同生活を送る方が合理的なはずだ。動画なら一夫多妻であったが、多夫多妻でもきっと問題あるまい。ある程度のプライベート空間だけ確保しておけば、トラブルも最小限だろう。

そうなると非合理なのは、法律であり、現在の常識である。「多夫多妻などトラブルだらけだろう!」というツッコミは、そもそも現代の夫婦の離婚率が3割程度という情報と照らし合わせれば滑稽である。一夫一妻もたいがいトラブルだらけなのだ。

また、少子化対策としてもいいのではないだろうか? 少子化の最大の原因は間違いなく金銭的な負担と、育児の実務的な負担である。それが解消できるのであれば、多少のデメリットにも目を瞑るべきだろう。

とはいえ、いわゆる現状維持バイアスによる政治的な抵抗が予想されることや、戸籍制度の根本的な刷新にあたる制度設計など課題は多い。それでもやってみるべきだと思う。

自然な家族の形などこの世界には存在しない。あるとすれば「自然」と言い張りたい人々の思惑だけだ。自然の定義合戦は必然的にプロパガンダ合戦と化す。

番組では、コメンテーターの1人が「子どもが多い奥さんとそうでない奥さんの生活費負担が同額なら揉めるのでは?」みたいなお節介な質問をしていた。だが、これも「家族」というフィクションに縛られた発想である。

自分の腹から出てきたという事実は、他の子より優遇する必然的な理由にはならない。「生みの親より育ての親」であり「生んだ子より育てた子」である。他人の子どもにする僕たちはあれこれ世話を焼こうとするのだ。共に暮らす家族であるなら、その子のために金を費やすことにいちいち不満を感じることはないだろう。

僕たちは家族や血縁という関係に縛られ過ぎている。家族とは資本主義を成り立たせるロジックの1つである。いくらでも遊び倒せばいい。僕たちは自由だ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!