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「我こそは世の理を理解している者なり」感について

自分をバカだと思いながら生きていくことはできないと、僕は思う。偏差値が低くても関係ない。偏差値は人生にはなんの関係もない指標として一蹴することが可能だからだ(もちろん偏差値が高い人にとっては、常に重要な指標であり続ける)。

「自分は十分な情報を手にして、世界のメカニズムをおおむね理解し、最も合理的な判断を下している」という自己認識をしない人なんているのだろうか?

「自分は重要なことは何も知らず、世界のメカニズムを全く理解せず、的外れな判断ばかりしている」と感じている人なんているのだろうか?

きっとそんな人は鬱になって自殺してしまうだろう。朝起きてから夜寝るまでの全ての自分の行動を疑ってかからなければならないのだから、まともな暮らしなどできるはずがない。

「仕方がない」は自分は賢明であるのに状況が悪いという構造化を行い自己正当化する言葉に過ぎず、「あのときはバカだった」は、過去の自分が愚かであることを認めているに過ぎない。つまり、現在進行形で(他に選択肢があるにもかかわらず)自分は愚かな判断をし続けていると考えながら生きていくことは難しい。誰しもがある種の歴史の終わり幻想に囚われているわけだ。

では、誰しもがそういう自己認識を行うこの世界で、右翼と左翼のように、意見が異なればどうなるだろうか?

もちろん、いかに証拠を揃えられようとも、全く異なる意見を受け入れるのは難しい。なぜなら、自分が今この瞬間まで愚かであったことを認めなければならないからだ。自分の過去を否定することはできても、自分の現在を否定することはできない。

ここで自分と全く異なる意見に対して、自分が証拠とロジックを揃えて異議を唱えられるなら、なんら問題ではない(もちろん、その異議を聞いた相手に理性の光が降り注ぎ、奇跡的に正気にかえる‥なんてことはありえないが)。

問題は、自分が相手の意見に反論する証拠もロジックも持ち合わせていないときだ。もちろん、周囲から見て完全に論破されたとしても、人はそれの議論を受け入れることはない。「ふん、馬鹿には何を言っても無駄なのさ‥」といったシニカルな態度を取らざるを得ないのだ。

この態度は、自分に都合の良い情報をチェリーピッキングしてくる能力や、それを論理的に継ぎ接ぎしていく能力が未熟な場合だけではなく、相手の議論を理解できない場合にも生じる(反論するためにはそもそも相手の話を理解しなければならないのだから)。

「相手の反論を理解できない」という事実と「自分は重要なことは全て理解している」という自己認識を組み合わせれば、必然的に「意味不明だが、相手はなにか的外れなことを言っているに違いない」と判断せざるを得ないのだ。そして、「相手は馬鹿で、自分は賢者」となる。

そうこうしているうちに人は「我こそは世の理を理解している者なり」というオーラを纏おうとする。もちろん、そのオーラはチープなフェイク品なのだが、自己認識の上では苦労して手に入れたsupremeに見えるのだ。

一方で、チェリーピッキングと弁論術に長けた人物同士がバトルした場合に何が起きるだろうか。恐らくベイトソンが言った「分裂生成」というメカニズムが生じる。スタートしたときは中道左派と中道右派との戦いだったのが、相手に反論するために極端な議論を展開していくうちに、議論が終わったときにはゴリゴリの新自由主義者とスターリン主義者になっているわけだ。

それはそれで、議論に勝ったという自己認識によって、「我こそは世の理を理解している者なり」というオーラを強化する。こちらの方がまだ本物らしく見える。理路整然とした議論に下支えされているからだ。

さらにいえば、意見が異なるわけではないときも、「我こそは世の理を理解している者なり」が「我らは世の理を理解している者なり」になるだけで、結果はほとんど同じだろう。相手に共感したいがあまり、自分たちの結論に合わせたチェリーピッキングを行うわけだ。

結果、人は何か重要なことについて意見をするときは、誰しもが賢者を装わざるを得ない。当たり前だが、僕だってそうだ。自分のことを賢者だと思っているから、こうやって馬鹿みたいにあれこれと講釈を垂れている。

まぁそういうところも人間らしさということで。別にいいか。これからも、僕は賢者ということでよろしく!

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