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人類社会におけるお金の運用コストを真剣に考える

「お金は社会にとって必要不可欠」という前提が疑われることは少ない。そのため、お金という存在そのもののコストパフォーマンスが問われることはない。

しかし、お金の運用コスト(ここでいうコストとは労働力や資源のことを指す)は、膨大だ。

銀行を建てて、大量の人間が朝から晩まで電卓を弾き、キーボードを打ち込み、書類を書くコスト。

紙幣を印刷し、現金輸送し、ATMを運用するコスト。

世界中のお店で、レジ打ちやレジ締めを行うコスト。

バーコードやタグ付けのコスト。

株式市場の運用コスト。

確定申告をはじめその他もろもろの税金運用にかかるコスト。

月次決算やら年末調整やら企業の経理部のコスト。

見積もりを作り、値下げ交渉をするコスト。

国債やIMFやFXやビットコインの運用コスト。

預金通帳や資産ポートフォリオをチェックして、やきもきするコスト。

数え上げればキリがない。お金というシステムを維持するための全労働量は、恐らく農業に向けられる全労働量よりも大きいのではないだろうか?

では、人類社会としてそれだけの対価を支払って余りあるほどのベネフィットを、僕たちはお金というシステムから受け取っているのだろうか?

結論を言えば、僕は「受け取っていない」と考えている。そして、お金以外に人間の労働を組織化し、社会機能を維持する方法が存在すると確信している。

恐らく物々交換の神話を持ち出して、僕の確信を否定しにかかるクラスターは存在すると思う。これに関しては人類学的な証拠を持ち出してくるまでもなく、僕たちが家族や友人に贈り物はしても物々交換なんてしないという点だけで十分に反論できる。

ホモ・エコノミクスは神話上の生き物なのだよ。

お金とは価値の貯蔵であり、価値の尺度であり、交換の媒体とされる。それはあたかもお金でしかなし得ない機能であるかのように表現される。

しかし実際のところ、貯蔵される価値とは人間を労働させる権力であり、それは強制力を伴わない労働で代替できる。僕たちの日常を鑑みればそもそも価値に厳密な数値化や尺度が必要ないことは明らかだ。それが必要なのは丸っきり信頼のない他人同士の取引に限られる。ならば信頼がお金の代替になり得る。同様に交換の媒体も必要ない。

ならば、権力ではない方法で人を組織化する方法(かくれんぼしようぜー!みたいな方法)と、その信頼をある程度の規模まで拡大していく方法さえあれば、お金は必要ない。

僕たちの暮らしのうち、厳密な費用便益計算で成り立っているのはほんの一部に過ぎず、それはある意味で「おママごと」のようなものだ。

ポール・スミスのスーツでコスプレをし、広々とした会議室でおママごとのような費用便益計算をしている合間、お母ちゃんたちはそんなおママごとにはかまけずに実利を取る。要するに、味噌汁を作ったり、トイレ掃除をしたりする。アダム・スミスのステーキを焼くような感じで、社会を回せばいいわけだ。

「そんなことできるわけない!」という意見に対して反論することは難しくないものの、面倒臭いのでここまでにしておこう。

まぁとにかく「今の社会がこのような形になっているということは、それ以外にはあり得ないということなのさ…世間知らずのお子ちゃまの戯言はこれだから困る…」という態度でいれば、バカだと思われにくいことは事実だ(そういう態度をとっていれば、僕はバカにするけどね)。

僕たちはほとんどお金のない世界は想像できない。前澤友作のような奇人変人の類でなければ、そもそも想像しようとすらしない。

想像してみると面白いかもね。お金を使わない社会って、どんなのだろうか?

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!