哲学科の外に、ホンモノの哲学者の集いを創る

大学と、先人たちの権威を身に纏いながら、過去の哲学書に注釈をつける。それを身内で褒め合うというのが、たぶん現代の哲学者の仕事なんだと思う。知らんけど。

僕は、そんじょそこらの哲学者よりも、革新的な思想を養っているという自負があるが、残念ながら僕は哲学者とはみなされない。なぜなら哲学科の博士課程に進んでいないからだ。

哲学科の人たちからすれば僕はどう見えるのか。所詮、ちょっとばかり本を読むからといって、自分を知識人であると勘違いをして、屁理屈をこねくり回しているだけの馬の骨に過ぎない。

本物の知識人サークルへの参加チケットは手に入らないのだ。二流大学を出て、サラリーマンとして平凡に暮らすだけの男には。

でも、僕は思う。哲学とは権威を疑う営みであるものであるはずだ。支配的な考えを疑うものであるはずだ。ならば、大学という支配的な考えを司る神の庇護のもとで、果たして哲学が機能するのだろうか?

哲学の本流とは違う世界に住むからこそ、本物のオルタナティブを生み出せるのではないだろうか。ルソーの生い立ちは確かそんな感じだったはずだ。彼もニートのような身分から、なんらかの論文のコンテストで一躍有名人になったはず。

しかし残念ながらこれも、コンテストという権威の力を借りている。

結局のところ『ホモ・ルーデンス』に書いてあった通り、人は徹底的に「遊び」に支配された生き物だ。論文コンテストや大学といった「遊び」の文脈に沿った人でなければ、現実世界への影響力を得ることはできないのかもしれない。

本来なら文脈にかかわらず、内容だけで判断されるべきなのだろうけれど、世の中はそうなっていないようだ。

ニーチェの孫弟子が論文を書けば、そうでない人が書くよりも注目されるだろう。しがない中小企業の出身者よりもボストンコンサルティングの出身者の方が、ベンチャーキャピタルから投資を受けられそうだ。ウズベキスタン出身の天才ラッパーは、ニューヨーク出身の平凡なラッパーよりもチャンスに恵まれないに違いない。

インド料理屋を開くネパール人は、そのことをよく知っている。しかし、「いい曲を作りたい」と言っている売れないバンドマンは、そのことを見て見ぬ振りをしているのかもしれない。単にいい曲を作っても、既存の遊びの勝者という肩書きがなければ、誰も注目できない。

持たざる者、既存の遊びの文脈で勝てる見込みがない者は、新しい遊びを創るのがいいだろう。ニコニコ動画や小説家になろうはかつてはオルタナティブだったけど、今はもう権威になった。全く新しい遊びを作らなければならない。

では僕が哲学者として注目されるには? 哲学サークルでも作って、新しい遊びの文脈を作ってみようかしら。

持たざる者たち。Have-Nots。いいねぇ。やってみようか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!