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洗濯機は人類に必要なかったのかもしれない

僕は洗濯があまり好きではない。洗濯機に放り込んで回し、干して、畳む。この行為が嫌いすぎて、洗濯しなくていいシャツを購入したくらいだ。なんなら全身洗濯しなくていい服で固めたいとすら思っている。

しかし、この前、おねしょした息子のパジャマを手洗いしているときに感じた。この作業、意外と楽しい、と。

服を縫製する作業もそうだけれど、服を手洗いするときも、服をよく観察できる。言い換えれば、作業を通じて服を愛することができる。普段は、適当に着て、適当に洗濯籠に放り込み、適当に洗濯機にぶち込み、適当に干しているだけで、ベルトコンベアの前に立って作業をしているような気分になるが、手作業ならそこに愛が生まれる。愛があれば楽しくなる。人間とはそういう風にできている。

そして、こうやって手洗いしていると、ふだんなら思考停止で洗濯機に放り込んでいる場合でも、「まだ洗わなくていいかも」「汚れた部分だけもみ洗いでいいかも」「霧吹きして干しておけばいいかも」とオルタナティブを検討するきっかけにもなる。洗濯のダメージを減らし、服への愛着を持たせることで、服を長持ちさせることにもつながるはずだ。

そもそも僕たちの社会は洗濯し過ぎている節があるし、服を持ち過ぎて、捨て過ぎている。その結果、マイクロプラスチックがどうとか、温暖化がどうとか言っているのだ。おそらく洗濯機はそこに一役買っているに違いない。

一見すると洗濯機は効率化だった。しかし、JSミルが言う通り、効率化してくれる機械が効率化してくれたことは一度もない。洗濯機によって余計な洗濯が増え、服を粗末に扱うようになった。洗濯機を作り、修理し、運ぶ工程が余計に増えたことは言うまでもない。

洗濯機は人類に必要なかったのかもしれない。縄文時代に洗濯機が発明されなかったのは、洗濯機を誰も必要としていなかったからだろう。人類にとって洗濯は忌むべき苦行ではなかった。

中には洗濯が苦行であるケースもあっただろう。例えば奴隷状態にされた召使いが貴族の洗濯を行うのはもしかしたら苦痛だったかもしれない。しかし、僕たちが僕たちの着ている衣服を洗濯することは、きっと愛すべき習慣であるはずなのだ。

これは日常のあらゆる側面において言える。歯磨きも。お茶を沸かすことも。玉ねぎを微塵切りにすることも。トイレ掃除も。どれも愛すべき習慣に変えられるだけのポテンシャルを人間は秘めている。

かつての日本人はそういう生き方をしていたはずだ。いわゆる禅的な暮らしというやつで、僕たちの先祖はきっと生活の隅々にまで美学を持っていた。

それが楽しかったのだ。僕も楽しく生きたい。まずは洗濯板を入手するところから始めようか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!