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単純労働を単純だと見下すのは誰か?

僕は正社員として法人営業、ライター、トラックの運転、フォークリフトでの荷役なんかの仕事をやったことがある。営業はさておくとしても、ライターとして働いているときは、専門職として高度なスキルを磨き上げた人材であると勝手にイメージしてもらえることが多かった(逆に、お笑い芸人にマウントを取ろうとする自称お笑い通のように、「私の方が文章書けますけど」と暗にドヤられるケースもあったが)。

自分で言うのもアレだが、僕はそれなりのスキルを持った人材であると自負していた。ライターの能力とは取材して文章化する力だけではなく、納期管理、顧客折衝なんかも含まれるわけだが、そういう複合的なスキルをある程度は持ち合わせていると感じていた。

だが同時に、1年やれば誰でも身につくスキルであるとも感じていた。ぶっちゃけ80点くらいのレベルならセオリーだけで到達できる。

一方で、例えばトラックドライバーやフォークリフトオペレーターは単純労働であり、誰でもできる仕事とみなされがちである。ところがやってみると、そう簡単な話ではないことがわかる。

荷物の種類や状態、倉庫内の状況、スケジュールなどを鑑み、常に状況判断しながら処理しなければならない。頭を空っぽにして延々と同じ動作を反復するわけではないのだ(もちろん、それに近い仕事もあるだろうが、そうでない仕事の方が多いはずだ)。

正直なところ、僕は営業やライターをしていた頃に付き合っていた、高度な知的生産によって高給を取っていると自負していた男たちは、ハッタリで金を儲けているだけであり、スケジュール管理能力も、成果物に対する責任感も、その良し悪しを判断する能力も、極めて杜撰なものだと感じていた(自分で言うのもアレだが、僕の役割はそういう杜撰なところをカバーすることだと思っていた。そして「すべて私の采配です」と男たちに成果を持っていかれる)。

一方、現場でフォークリフトを操作するような人々は、効率とクオリティを同時に追求し、自分の仕事に責任を持つ職人に見えた。ハッタリ男たちに劣っているのは、ハッタリをかます能力くらいなのではないかと思うくらいだ。

もちろん、どちらも人間なのだ。完璧ではない。現場の人々にも欠点はある。しかし、ホワイトカラーとブルーカラーの給料の差を正当化するほどの能力の差があるとはどうしても思えなかった。

ただし、ホワイトカラーはブルーカラーが単純労働だと思い込みたい。なぜかと言えば、ホワイトカラーが高給取りなのは、ブルーカラーよりも高度な知的生産を行なっているからだという建前を維持する必要があるからだ。

ブルーカラーは高卒でもいい。ホワイトカラーのエリートは基本的に大卒である。なぜホワイトカラーのエリートになれるのは大卒に限られるのかというと、エリートは大学で高度なスキルを身につけ(あるいは大学に入学できるほどの知的能力を持っていて)、仕事においてそのスキルを発揮しているから、というのが公式見解である。

実質的に学歴によって決定される身分制なわけだが、公式見解では、これは身分制とは似ても似つかないシステムということになっている。身分制などという不合理で非科学的なシステムは、近代的に啓蒙された我々はとっくに廃しているのだから。

さて、それでは高度な知的生産とはなにかと言えば、さながらシュミレーションゲームの如くブルーカラー労働者をコントロールすることを意味する。あれこれと指示を出して、自分の満足いく結果を引き出すわけだ。

このとき、「指示しなくても勝手にやってくれる」といった事態が観察されることは望ましくない。なぜなら、そうなるとホワイトカラーが必要なくなってしまうからである。ホワイトカラーが必要であると周囲に認めさせ続けるためには、常に「俺が指示した通りにやってくれたおかげで上手くいった」という事実が必要になる。

となると、ブルーカラー労働者は指示の通りに動くマリオネットのような存在に貶められる。実際は現場を知らないホワイトカラーが出した指示など的外れであるわけだが、現場サイドは指示を鵜呑みにして「ホワイトカラーが的外れな指示を出した」という事実が明るみになることよりも、その場で創意工夫を繰り返して、あたかも指示が完璧であった見かけを維持してくれる。そして、そんな苦労はつゆほども知らず、ホワイトカラーは「うん、俺が指示した通りにやっているな!」と悦に入るわけだ。

実際のところ歯車は、上手く歯車を演じられない。プログラミング初心者が確実に痛感するように、機械は融通が効かず思った通りに動かすには正確な指示を出すコツがいる。

だが人間は違う。杜撰な指示でも、こちらの意図を汲み取り、こちらが求めた結果を出力できるように創意工夫してくれて、「俺の指示した通りだ!」という快感を与えてくれる。

実際のところ、理想的な歯車には創意工夫が欠かせない。理想的な歯車は、歯車ではなく人間である。

さて、僕はここまでブルーカラーとホワイトカラーという二項対立を極めて雑に取り扱った。実際には、仕事内容はここまで単純に分断されていないだろうし、歯車と化している人々もスーツを着たホワイトカラーであることはよくある。が、まるっきり的外れということもないだろう。

僕は「出世するほどマネジメント」という風潮に違和感があった。マネジメントがなくても人は動けるし、人が動かなければ何も生産されない。マネジメントする人ばかりが増えても、やたらと口うるさい軍師気取りのおっさんが会議室に溢れかえるだけで、誰も何もやらなくなる。実際、日本全体で起こっているのは、そのような現象だと思われる。

大卒の割合が半分を超えて、ブルーカラーはどこもかしこも人手不足。にもかかわらず大手企業の総合職には莫大な学生がエントリーする。

誰もが会議室を埋め尽くす軍師気取りのおっさんを目指している社会であるそしてこの傾向は必然的にブルシット・ジョブを増殖させる。

僕は人生というゲームをこよなく愛している。だから、いつまでもプレイヤーでありたい。人を動かして手柄を横取りするような立場には興味がない。

人を動かす喜びと、自らが手を動かす喜び、誰かと共に手を動かす喜びは、どれが一番大きいのだろう。人を動かすにしても権力で動かすのと、信頼関係で動いてもらうのと、どっちが嬉しいのだろう。

分からない。だが、権力者が幸福ではないことは、長らく指摘されてきた。権力者は対等な人間関係を築くことができない。対等な人間関係が幸福に欠かせないことは誰しもが同意するだろう。

ならば、権力を求めるのをやめて、単純労働だと馬鹿にするのをやめて、みんなが対等な立場で手を動かす。それこそが人間が幸福になる秘訣なのではないだろうか。

これは理想論である。だが、それが幸福への道だとわかれば、みんなが理想を追いかけられるはずだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!