学校という出会い系サービス、あるいはアオハル洗脳について
※こちらの記事の続き。いただいたコメントからのインスパイア記事である。
ここで僕が主張したことをざっくりと要約すると、次のようなものだ。
※ここでいう「教育サービス」とは主に高校大学あたりを想定しているが、小中学校や塾や習い事も含めている。
経済成長のためには教育が必要だと誰しも口にするし、収入アップのためには教育が必要だと誰しも口にする。しかし、教育業界はその役割を果たしていないのではないかと僕は考えている。
それに対していただいたコメント(と僕の返信)がこちらだ。
すごく雑にまとめると「教育サービスはすでに教育のもつ能力の開発という役割を放棄して、コスパの悪い出会い系と化している」という指摘だ。タナカさんのこの指摘は僕にとっては盲点であったが、思いっきりうなずかされてしまった。
僕の議論は、教育サービスの持つ能力の開発という役割(暗黙のうちに収入アップ&経済成長が前提されている)を果たせなくなったことを指摘したことにとどまっているが、タナカさんはもう少し先に行っている。
タナカさんの指摘を踏まえて考えると、教育サービスは恐らく僕が指摘したことを薄々感じ取っていて、白々しくも開き直り始めていることがわかる。
つまり「教育の真の目的は友達を作ったり、思い出を作ったりすることなのだ(つまり、能力の開発なんて二の次なのですよ?)」という暗黙のメッセージを教育業界は発信し始めているのだ。ここ数年でアオハルという気持ちの悪い言葉が登場し始めたのは、象徴的な出来事だと言える。
もちろん、「能力の開発なんて二の次なのですよ?」と声を大にして宣言するようなことはしない。あくまで消費者に能力開発や収入アップという効果に幻想を見てもらうことによる利益は確保しつつも、「大学行っても意味なくない?」と指摘されたときのために別の逃げ道を用意していると見た方がいい。
このメッセージは他のいくつかの重要なメッセージを前提としている。
1つには、大切な人間関係は学校でしか手に入らないという前提である。学校でのアオハル体験を特別視することは、校外の体験を相対的に貶めることとなる。
2つは、(これは1つ目の発展系なのだが)大切な人間関係は大人になってからは手に入らないという前提である。
この2つの前提は、ある意味で間違っていない。学園祭でたこ焼き屋をやることは、学生にしかできない。だが、あまりにも学校での体験を神聖視し過ぎていて、他の体験を蔑ろにしているように思える。
ディズニーランドのような既に意味づけされた体験を消費する消費者のマインドがこの段階から育まれているのだ。
とはいえ、僕はこれが教育業界の陰謀であると主張するつもりはない。アオハル幻想を洗脳することを画策したフリーメイソンの黒幕の存在を僕は信じない。世の中のあらゆる不合理と同様に、様々な人間の思惑が影響しあい、気づいたらそうなっていたというのが、本当のところだろう。
この風潮から逃れるにはどうすればいいのか? そもそも逃れる必要はあるのか?
わからない。まだ僕の中で考えがまとまりきっていない。もう少し考えてみて、またその成果を書いてみようかと思う。
では。僕は今から灰色の社会人生活で病んだメンタルを病院で診てもらうので、これくらいにしておこう。
※最近、コメントいただいて議論が発展するのが楽しい。何か思うところがあればコメントくださいm(__)m
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