ネタバレって、どうして嫌なのだろう?

一方は、自分で読み終えて結末を知っている状態。もう一方は、誰かにネタバレされてから読み終えた状態。何が違うのか?

確かに、衝撃を受けるという体験はネタバレによって失われる。しかし、衝撃というのは一過性のものに過ぎない。

ネタバレされようがされまいが、鑑賞し終えてしまえば、「結末を知っている」という状態はなにも変わらないはずだ。

しかし、ネタバレをされてから知った物語は、振り返ってみても味気がなく感じる。なぜなのだろうか?

僕なりの仮説はこうだ。


イケア効果。

…という言葉をご存知だろうか。イケアの家具のように、自分で組み立てたものは、誰かに組み立ててもらったものよりも、愛着が沸くという心理的な効果のことを指す言葉だ。

この効果は、物語を鑑賞する際にも適用されているのではないかと思う。

衝撃的な結末というのは、ふつう、長い道のりの先にある。ネタバレをされていない読者は、その先に衝撃があるのかどうかわからない状態で、時間をかけて歩みを進める。物語を組み立てていくような気持ちになる。

そして、結末と出会い、物語を完成させる。

自分の歩みを進めた末に物語を完成させたという思い出は、何度読み返しても鮮明に蘇る。色褪せていくどころか、振り返る回数を重ねるごとに記憶が上塗りされていって、その物語は美化されていくのだ。

しかし、ネタバレされると話は変わってくる。

既に知らされている衝撃に、予定調和的に出会うだけの経験。すでに組み立てられた物語であり、踏みならされた道。後から振り返っても、それは刺激的な冒険でもなんでもないというわけだ。

もしかしたら僕が書く感想もネタバレになっているのかもしれない。

まぁ、ネタバレっぽいものが現れてきたら、読むのをやめるだろうから、何も気にしなくてもいいか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!