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Kindleペーパーバック出版の心得(メモ)

本を出したい人にとってはいい時代である。

Kindleダイレクトパブリッシングの仕組みを使えば、パソコンとネット環境さえあれば、誰でも電子書籍や紙の本を、在庫リスクゼロで出版できるのだから。

もちろん、だからと言ってカップ麺感覚で本を作れるのかと聞かれれば、それは違う。僕は170ページくらいの比較的コンパクトな紙の本を出したわけだが、それでも執筆からページレイアウト、装丁まで合わせて20〜30時間くらいはかかったのではないかと思う。ファイナルファンタジーをクリアするくらいの時間は必要だし、それなりにハードルはある。

なので、ここで出版するにあたっての心得でも記しておこうと思う。半分は自分用のメモである。需要があるのかわからないが、まぁともかく書いていこう。

※ちなみに僕が書いたのは思想書なのか宗教書なのか学術書なのかカテゴライズ不能のよくわからない本だが、少なくとも小説ではない。小説の書き方となるとまた話は変わってくると思う。また、僕は本の完成のさせ方はレクチャーできても、読まれる本の書き方はレクチャーできない。そういう情報が欲しい人は他社さんへ。


■下準備編

本を出したい人にも、いろいろいる。まずは「彼女欲しい」みたいなノリで「本書きてぇ」と言っているワナビーである。彼は特に書きたいことも何もなく、単に「本を書く」という行為そのものに対する憧れだけを肥大化させている。さながらAVのようなセックスを夢見る男子高校生である。

他には、漠然としたテーマだけは決まっている人もいる。あるいは、テーマに加えてより解像度の高い筋書きのようなものまで頭の中に組み上がっているような人もいるだろう。

1番最後のパターンの人は、さっさと書き始めればいいと思うが、まだ漠然としたテーマしかない人や、それすらもない人は、とりあえず素材探しから始めるのがいいと思う。

どこから探してくるのかと言えば、それは自分の中からである。noteなりブログなりその他のプラットフォームを使い、なんらかのテーマに関係あることや、関係ないことを書いていく。

できれば公開したい。反響があるかどうかは別として、文章も人間と同じで「見られること」を意識した方が輝くのだ。

500文字とか1000文字くらいのボリュームでも構わないだろう。ともかく日々、「自分が考えていること」や「自分が感じていること」を言語化していくことで、素材を探していくのだ。

ここで「言語化」という言葉には注意が必要である。なぜならこの言葉は、既に自分の中に存在している「言語化されない思考や感情」を、変換キーをポチッと押すだけで文章にできるかのような印象を抱かせるからだ。

言語化されない思考は存在しないとまでは言わないものの、僕たちの脳みそはそれに近い構造になっていると思われる。なので、どちらかと言えば、言語化されることではじめて「自分がそれを考えたり感じたりしていた」という事実が遡り申請的に形成されるという感覚の方が事実に近いだろう。つまり「言語に変化させる」のではなく「言語を生む」のである。「素材探し」という言葉も正確ではなかったかもしれない。「素材作り」である。

さて、ある程度noteなりブログなりに文章を書いていると、自分が書きたいことの方向性くらいは定まってくるだろう。そして、それぞれ独立していると思われた記事同士が、よくみればネットワークを生み出していることに気づいていく。「この情報の根拠として、この情報が使えそうだ」とか「この記事の内容を展開したものが、あの記事になっているじゃないか」とか。そういう自分では意識していなかったような記事同士の網目を、巡回セールスマンのように縫い上げていけば、どうやら1つ筋の通った言論になりそうだ‥という感覚を抱いた段階で、ようやく本を書き始めることができる。


■骨組み編

僕のおすすめパターンは「まえがき」と「あとがき」を先に書いてしまうことである。

まえがきは、その本の要約になることが多い。「この本で書きたいことはこれで、その根拠はこれとこれを提示して、結論はコレ」といった具合だ。まえがきという文章を誕生させることによって、思考の地図の中に浮かび上がっていたルートが、現実化し、1つの設計図になる。

あとがきを書く作業は、未来へのタイムスリップである。既に執筆が終わったときの賢者タイムの気分で、書き上げるのだ。あとがきそのものが、過去に書かれた本文の存在を仄めかしてくれる(スターウォーズでいえばエピソード4である)。

まえがきとあとがきの存在が、本文がどうあるべきかを僕たちに知らせてくれる。目次を書くのはそれからだ。

結論、初めに作った目次は最終的にはほとんど入れ替わっていたものの、やはり初めに雛形やコンパスとしての目次は必要だと思う。1章はこれを書いて、2章はこれ‥という具合に、タイトルをつけていけばいい。

さて、ここまでできれば、あとは本文を書いていくだけである。


■本文執筆編

と、その前に、1つ想定しておいた方がいいことがある。大まかなページ数を決めておくのだ。僕の場合は新書くらいのボリュームを目指していたので、だいたい8万文字くらいを目安にしていた。そのため1章あたり1万文字くらいが必要であるということがわかっていた。

1章をまず書き上げ、文字数を数えてみると5000文字くらいだった。その後、読み返しながら重複している表現などを削っていけば4000文字くらいになった。全く足りないのである。困った困った。

とは言っても安心して欲しい。読み返していると、「この情報は根拠がないな」とか「この2つの段落は繋がりが甘いから、間に接着剤が必要だな」とかいったちょっとした施工ミスが見つかったり、見つからなかったりする。見つかれば書けばいいし、見つからなければスルーすればいい。僕の場合は1章を5000文字くらいで捨て置いて、2章を書き始め、2章もまた5000文字くらいで捨て置いて、3章を書き始めた。

すると、3章を書いているくらいで、「あ、この話をするのなら、あの情報を1章に書いた方がいいな」という気づきが芽生えてくる。全体図が見えてくると、どこに何が足りないのかも見えてくるのだ。だから、何はともあれ目次に沿って書き進めていくのがいい。文字数が足りなくても、後から自然に付け足したい情報がみつかってくる。

もちろん、そうならないときもある。そのときは、気分転換に本でも読めばいい。関係があるような、ないような本でもぱらっと開けば、そこに自分が求めていた情報が書かれていたりするものだ。そういうときは、丸々引用すればいい。それでも見つからなければ、もう放置しかない。そのうち何か出てくるから、気長に待つのだ。


■骨組み編その2

たびたび家づくりのようなたとえをしてきたが、本を書くのと家をつくるのとでは決定的な違いがある。それは、本を書く場合は、骨組みをあとから変えられるということだ。

結論から言えば、「なんかこの章とこの章の繋がりがしっくりこないなぁ」という部分は、いくら肉付けしても最後までしっくりこない。僕の経験では、思い切って入れ替えてしまったら「なぜもっと早く入れ替えなかったんだ‥」と感じることの方が多かった。

順序を入れ替えると整合性を取るのが難しいと思われるかもしれないが、意外とそうでもなく、章の冒頭と結末の辻褄さえ合わせれば、なんとかなることの方が多い。理屈と膏薬はどこにでもくっつくわけで、理屈と理屈は簡単にくっつけられるのだ。

そんなこんなで多分執筆にはトータル1ヶ月くらいはかかっただろうか。「これで完成だ!」と思っても実は本を出版するまでにはまだまだやることがある。


■レイアウト・デザイン編

本というのは、文章を書くだけではない。目次のレイアウトをどうするのか? 各ページのページ数はどこに配置するのか? 余白はどれくらいか? 半角or全角はどうするか? 見出しの文字サイズは? 改行はどうするか? それらのルールはちゃんと統一できているか? などなど考えることは山積みである。

手っ取り早い方法は1つである。他の本をパクるのだ。

Amazonのペーパーバック作成ページでは、完成系の本のサイズを選択できる項目がある。そこで僕は新書のサイズを調べ、同じサイズを選択した。

ペーパーバックはPDF入稿なので、PDFにしたときにAmazonが否定するサイズに合致していなければならない。

ページのレイアウトは僕はMac備え付けのpagesというソフトを使った。ページ数の表示や余白の設定などなどもpagesの機能で賄った。恐らくWordでも同じことはできるはずだ。

これはまぁ調べながらやればできるだろう。僕もまともにワープロソフトの使い方は知らないが、いちいち調べながらやった。

レイアウトよりも苦戦したのは表紙である。

ペーパーバックの表紙は、表表紙、背表紙、裏表紙全て合体した1枚の紙として入稿しなければならない。これがなかなか難しい。背表紙の太さはページ数によって変動するし、文字や画像はどこに収めなければならないといった細かなルールがいくつもAmazon側から提示される。

イラレなんかが使える人は簡単かもしれないが、僕はイラレを使えないし、類するソフトも持っていないので、pagesで無理やり作った。最悪、ペイントでもいけると思う。画像データで入稿するので、Amazonが指定する位置にちゃんと配置されていれさえすればいいのだ。だから、ほぼ目視で微調整しながら表紙を作った(ちなみに不備があったらAmazonから突き返される。僕は2回突き返された)。

当たり前だが、出版社が本を出すときは執筆する人、構成する人、レイアウトを考える人、表紙をデザインする人は別である。それを素人が1人でDIYするのだから、クオリティは下がるとは言えそりゃあ大変である。

だが、文章さえ書き上げてしまえば、この辺りの作業はどうとでもなると言っていい。なぜなら、文章を書き上げた後は「早く出版したい」という気持ちでモチベーションが維持されるからである。文章には完成はないし、調べても誰も攻略法を教えてくれない。だが、レイアウトは市販の本程度のクオリティというゴールが見えているし、調べればわかることばかりだ。表紙デザインも終わりはないとは言え、まだ諦めはつきやすい。

というわけで、当たり前だが、何よりも超えなければならないハードルは文章を書くことである。あとはどうにでもなるのだ。


■出版後の心境について

何はともあれ出版されて、紙の本が自分の手元に届いたときの達成感は大きい。書いていたときは単なるデータの塊にしか思えなかったものが、ちゃんと出版物としてこの世に生を受けたのだという手ごたえを感じる。子どもが生まれる前と、生まれた後の感覚に近い。

まださほど出版してから時間はたっていないのだが、読み返していると不思議と自分が書いた本ではないような気持ちになってくる。親離れというか、そういう感覚だ。昔バンドをやっていたとき、僕は作曲をしていたわけだが、それをバンドメンバーで演奏し、録音したものを聴いたときと似たような気持ちである。

当たり前だが、自分が書いた本なのだから、自分が読みたいことが書いてある。自分の本の1番のファンは間違いなく自分だ。だからナルシストっぽくなるが、何度読み返しても飽きがこない。

それでもなお、これを自分が仕上げたのだという達成感はすり減ることはない。これは生きていて最上の部類に入る喜びである。

とは言え、100点満点をあげられるわけではない。「あー、これ書いてないなぁ」といった反省点はいくらでも見つかるのだ。その反省点だけで、もう一冊の本になるくらいに。

次も書きたい。でもなかなかエネルギーも時間もない。が、いつか書きたい。このプロセスにはきっと終わりはないのだろうが、それでいい。書き続けることが僕にとっての余暇であり喜びなのだ。

そんなこんなでバーっと殴り書きしてきたが、参考になるのだろうか。そもそも本を書きたい人はどれだけこの文章を読んでくれているのだろうか。わからないが、誰かの道標になれば幸いである。

というわけで、ではまた!

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!