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大人に押し付けられる、無邪気な子ども像

1歳半の息子は電車が大好きだ。朝起きて第一声が「阪急!」である日も珍しくないというくらいに。少し前まではyoutubeでひたすら踏切の動画を観ていたし、今はトーマスに夢中だ。

「ならば、京都の鉄道博物館に行こう」と大人は考える。これだけ電車が好きなのだ。電車だらけの楽園に行けば、電車好きのオルガズムがオーバードーズするだろう。

家族3人で、遠路はるばる京都へ向かう1時間と少しの道のり。入り口でチケットを買って、さぁいよいよ鉄道の楽園だ。そう思って息子を解き放つ。

するとどうだろう。リアルサイズのSLや新幹線、環状線の車両をよそに、息子はそのあたりの地面のタイルをほじくり始めた。

「あれ、電車は? 電車いっぱいあるで??」

焦り始める大人。無視してタイルをほじくる息子。

タイルに飽きた後は、立ち入り禁止エリアを囲ってある鎖をプラプラ揺らしたり、階段を登ったりおりたり。鉄道博物館に来てやるようなことではないことをやって楽しんでいる。

どうやら、何かが違うらしい。電車が好きなのは好きだけれども、たくさんあればいいというわけでもないようだ。

しかし、大人はなかなかそれを認められない。「せっかくきたのだから…」と、無理やり息子を連れ回して、SLに乗る体験や10分の1サイズくらいのトーマスに乗る体験をする。そして、なんとか作り笑いを引き出して、写真を撮ろうとする。笑顔の写真が1枚あれば、その旅は全部が楽しかったことになるのだと信じているかのように。

帰り際、大人は「楽しかったねー!」と息子に話しかけ、「この旅は楽しかった」ということにしようとする。

しかし、実際のところ息子が楽しんでいたのは、鉄道博物館の地面や階段や鎖など。別に近所の公園でよかったのだ。

わざわざ遠路はるばる旅をしてきたことなど、大人の勝手でしかない。大人は、全く同じ牛タンでも、地元のお店で食べるよりも、仙台に行って食べた方が「美味しい」と言うが、子どもはそういうフィクションに振り回されることなく、ありのまま、そこにあるものを楽しむ。「せっかくやから」とか、そんなことは言わずに、ただ楽しむのだ。大人の基準を押し付けるのはやめた方がいいのかもしれない。

歳をとるほど、人は狭い視野の中に、他人を閉じ込めようとする。『坊ちゃん』の清なんて、まさしくそんな人物だった。やめよう。閉じ込めるのは。

別にいいか。旅行に行ってタイルをほじくっても。子どもというのは、大人の期待通りに生きることはない。大人の期待に応え続けることほど、退屈なこともないし。

意味不明なもので遊べばいい。大人に理解される必要はない。将来、飯の種になるかどうかなんて気にしなくていい。

カオスはまだ滅びてはいない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!