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なんやかんや嫌いになれないこの世界【雑記】

労働なき世界を声高に叫ぶ僕ではあるものの、かといってこの世界が地獄であるとは思わない。いや、特定の人からすれば地獄かもしれないが、少なくとも蟹工船や女工哀史に描かれた人々に比べれば、まだマシだろう。小さな子どもが十四時間も労働させられるような状況は(少なくとも日本では)存在しないのだ。

生産も多少は自動化されてきている。非効率な労働慣行も見直されつつある。パワハラもセクハラも問題視されてきた。育休取得もじわじわと(本当にじわじわと)進んでいる。残業も多少は(少なくとも統計上は)減っている。自分の仕事に満足している人も多い。やりがいを感じる人も多い。

なら、次のような問いが脳裏をよぎることは避けられない。

このままでいいのではないか? このまま順調に法規制や組合活動を通じて労働環境をよくしていけば、徐々に労働時間は減っていき、孫たちの世代にはAIとロボットで自動化されたラグジュアリーな時代がやってくるのではないか? グローバルサウスの問題、エッセンシャルワークがシットジョブ化している問題、格差の問題、環境問題など、さまざまな問題はある。だが、そんなことに気を病むよりも、自分の生活のことだけに集中し、粛々と日銭を稼げばいいのではないか? わざわざ「労働なき世界」などという突拍子もない議論を巻き起こして波風を立てたところで、なんの意味があるのか?

本音で言えば、僕が生きている間に労働が完全に廃絶できるとは思っていない。二十二世紀中くらいに、労働が廃絶されればいいと思っている。これに関しては、わりと真面目に思っている。もちろん、AIとロボットのおかげで労働が廃絶されるわけではない。ベーシックインカムが実現され、アンチワーク哲学(あるいは、それに類する人間観)が提示されることによって、労働=強制が奴隷制や人種差別といった悪の一つとして数え上げられた結果、労働の廃絶というコンセンサスが生じ、国家や企業といった組織化方法が変革されていくのだと確信している。

遅かれ早かれ人類は脱労働する運命にあると思うが、僕がアンチワーク哲学を主張するのは、その潮流に貢献し、加速させたいからである。「労働の廃絶」というテーゼは、かつての普通選挙や奴隷廃絶同様に非常識な妄想であるという扱いを受けている。だからこそ、僕が声高に叫ぶ必要がある。すんなりと受け入れられるような議論だったなら、もうとっくに労働は廃絶されていることだろう。

労働の廃絶が不可能であると信じるに足る証拠を見つけたのなら、僕は喜んで自説を撤回しよう。はっきり言えば、労働の廃絶を主張したり、信じ続けることは大変なのである。人と意見が合わないし、生きづらいったらありゃしない。僕が間違っていることを確信し、「あ、なんだ。よかった。単に俺がバカだっただけなんだ・・・じゃあ、労働して金を稼いで家族を養おう!」と潔く人生の方向転換ができるなら、それはそれで僕の幸福度を高めてくれるはずだ。

そう思うくらい、僕はこの世界が憎めない。変えたいけれど、嫌いにはなれないのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!