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僕は、ホームレスの命を救ったのだろうか?

きのう、会社の近くを散歩していたら、橋の上で土下座をしている人がいた。顔は伏せているので見えない。なにやら、文字を書かれた段ボールを掲げている。

「きょう、食べるものもありません。このままでは死んでしまいます。お金を恵んでください」

どう見てもホームレス。それも、生命の灯火があと少しで消えてしまいそうな弱々しい姿だった。

通行人の数はそれなりで、2秒に1人くらいは前を通っている。しかし、段ボールでできた小銭入れ(?)には、一円玉が5~6枚入っているだけ。これじゃあ、おにぎり1個も買えない。

僕はいたたまれなくなって、「1日分くらいにはなるだろう」と、700円くらいのお金を置いていった。

僕がジャラジャラと音を立てている間、ホームレスは無言で、顔も上げなかった。僕に顔を見せるのも耐えられないくらい、恥入っているのだろうか。

30分ほどして同じ場所を通ったら、ホームレスはいなくなっていた。僕のお金でおにぎりを買いに行ったのか、警察に追い払われたのか、NPO法人の施しに預かっているのかはわからない。

その場では少しだけいい気分になれた。「僕は人の命を救ったかもしれない」と。

しかし、改めて考えてみると、そう楽観視できるようなものではないと気づいた。

果たして、僕の行為には、一体どんな意味があったのだろうか?

仮に、彼が僕のお金で1日を食い繋いだとして、それがなんになるのだろうか?

おそらく、たった1日で彼が勤め先を見つけることはないし、家を見つけることもないだろう。そんな短期間で、社会が彼にチャンスを与えるとは思えない。

ならば、明日になれば腹を空かせて、同じように、恵みを乞うことになるのではないだろうか。だったら、僕の行為は、彼が野垂れ死ぬのを1日だけ先伸ばしただけで、なんの解決にもつながらないのではないだろうか

わからない。せめて僕のお金が少しでも彼の役に立っていることを願うばかりだ。

 ***

僕は「人の命を大切に」と数え切れないくらい聞かされてきたし、その考えに同意している。動物の命は、畜産や動物実験という形で間接的に犠牲にしているとしても、せめて目の前の人間の命だけは守りたいと思っている。

恐らく、多くの人もそう思っている。病気や事故で死んだ人のニュースを聞けば、心を痛める。

しかし、いざ、道端で命の危機にあるホームレスに出会えば、見て見ぬふりをしてしまう。僕だって、たまたま1人きりだったからお金を置いたけど、誰かと歩いていたり、急いでいたりしたらスルーしていたかもしれない。

なぜスルーするのか? わからない。人によって理由は異なるだろうが、自己責任論が影響していたことは疑いようがないと思う。

つまり、「まともに働かなかったからだ。自己責任だ」というわけだ。通行人は、そう自分自身に言い聞かせて、命を見捨てる言い訳をしていたのだろう。

その自己責任論には、ホームレス自身も同意しているのだと思う。もっと早く、万引きでも、食い逃げでも、畑荒らしでもして、食いつなげばよかったのだ。運が良ければ刑務所の飯にだってありつけただろう。しかし、彼は犯罪に手を染めることなく、「人に迷惑をかけてはいけない、自己責任なのだから」と、限界まで自分を追い詰めたのだと思う。

思い返せば、僕が子供だった90年代後半から00年代前半は、ホームレスはもっとワガママだった。役所の前にブルーシートを張って、なにやらよくわからないプラカードを掲げて、政府に対して何かを要求していた。当時はまだ「俺は悪くねぇ!」と言い張っても許される空気があったのだろうか。

しかし今は、ホームレスですら社会に対して不満をぶちまけることがなくなった。耐えて、耐えて、死の一歩手前にいって、ようやく他人に頼りはじめる有様だ。

なぜだろうか? わからない。新自由主義が影響しているような気はする。

新自由主義は、自己責任の理論だ。みんなで自由に競争をして、脱落者は見捨てるべきというわけだ。

僕はこの考え方が嫌いだ。すぐに他人に責任をなすりつけるのもどうかと思うけど、だからといって、ぜんぶ自分で背負わせるのも行き過ぎだ

いいじゃないか。怠けて暮らしてきた人が、「働きたくないけど、ご飯ください」と言っても。それくらいの余裕は社会にあるだろう。

こんなことを言うと「義務を果たしていない奴が権利を…」的な反論があがるわけだが、この頭の悪い根性論は単純に間違っている。義務と権利は対義語でもなんでもないし、「どの程度の義務を果たせば、どの程度の権利が与えられるか」が発言者の都合でしかないからだ。

かつての奴隷が「自分には自由に活きる権利がある」と主張したとしても、奴隷の主人は「奴隷としての義務を果たしていないのに、権利を主張するな」と封じ込めていたことだろう。

それに、どうせ根性論を振りかざす奴も、たいして社会の役に立っていない。必要もないものを売りつけたり、運良く権力の座にありついて偉そうにしたり、権力者に媚を売ったりして、たまたま収入を得られる立場にいるだけだ。いわゆるブルシット・ジョブだ。この概念を提唱したデヴィッド・グレーバーは「人の仕事をブルシット・ジョブだと揶揄するのではなく、あくまで自己評価であるべき」と言っていたが、僕は揶揄したい。「お前らの仕事はブルシット・ジョブだ。仕事ごっこだ」と。

話がそれてきたが、僕が何を言いたいのかというと、「自己責任論は糞食らえ」ということだ。いいじゃないか、他人にすがりついて生きたって。いいじゃないか、ぜんぶ人のせいにしたって。

俺は悪くねぇっ!

結局、僕はホームレスの命をほんのわずかに延命したかもしれないが、きっと救ったことにはならないだろう。

彼に本当に必要だったのは、刑務所に入る勇気だ。社会に迷惑をかける勇気だ。そして、それを容認する社会だ。

容認しよう。どんな理由でホームレスになったのかはわからないけど、たとえ想像を絶するほどの怠惰が原因だったとしても、その命には価値があるだろう。死ぬくらいなら、人に迷惑をかけまくってもいいだろう。市役所に入ってわめき散らしても、万引きしても、火炎瓶を投げたっていいだろう。「命は大事」と、散々僕たちは教え込まれてきたのだから。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!