「そうそう、俺はそういうことが言いたかってん!」

…と、人生の中で言われた回数においては、僕は結構な上位ランカーだと自負している。ピッタリの言葉が見つかっていない相手のモヤモヤを言語化してあげることが得意なんだろうと思う。

アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、いわば手紙の代筆屋で、クライアントの話し相手になってその内容を手紙にまとめるという仕事をしていた。これも「そうそう、これこれ!」を引き出す仕事だ。僕はこの仕事、結構上手にできるんじゃないかと思っている。

しかし、ふと僕は疑問に思うことがある。それは「お前、本当にそんなこと考えていたのか?」という疑問だ。

電通のコピーライターである梅田 悟司は、著書の中で「言葉にできていないということは、考えていないことと一緒」的なことを言っていた。

梅田の理屈で言えば、「そういうことが言いたかってん」と言っている人は、他人が言語化した思考にフリーライドしているに過ぎない。

やや過言気味ではあるが、僕もその意見には概ね同意できる。言葉という枠組みがなければ、僕たちは思考することすらできない。

「彼が何を意味しているのか、どうやって知ればいいのだ、何しろ私は彼の記号しか見ていないのだ」と人が言うなら、「彼はどうやって自分が何を意味しているのかを知るのだ、彼も自分の記号しかもっていないのだから」と私は言う。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

一方で、「唯一、言葉しか存在しない」的な唯語論に陥るわけにもいかない。「痛い」という言葉を知らないとしても、赤ん坊は何らかの不快感を覚えて泣く。抽象的でもやもやした現実があって、それを言葉で捉えている以上、現実が先立っていると考えることもできる。

しかし、それは鶏or卵現象のようにも思えてくる。言葉が先立って、感情や現実が造られるということもあり得るような気がしてならない。

(実際、最近の脳科学者も似たようなことを言っている。構成主義的情動理論という奴だ。)

つまり、僕が言葉にしたとき、相手はこれまでそんなことはつゆほども考えていなかったにも関わらず、(確定申告の遡り申請のように)過去を遡って「もともとそのようなことを考えていたが単に言葉にできなかっただけ」という現実を新たに作る‥というわけだ。

言葉にして初めて、それが思考になるのであれば、初めに言葉にした人が、初言語化権とでも言える権利を主張できる。

もしこのnoteを読んで「そうそう、俺はそういうことが言いたかってん!」と思った人がいるとすれば、それはきっと遡り申請だ。

それ、僕の権利なので、ご注意を。

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