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労働したくないあなたは怠惰ではない【アンチワーク哲学】

「労働したくない」「労働はクソ」と口にするとき人は、他者の役に立つことを心底嫌う怠惰な存在として自分をイメージする。そして多かれ少なかれ他人も似たようなものであると考える。人間は誰しも人の役に立つようなことを嫌悪していて、だからこそ、社会を維持するために必要な労働を押し付け合い、できるだけ自分がその重荷を背負わなくて済むように、FIREを達成したり、AIによる自動化やベーシックインカムを渇望したりする・・・というわけだ。

ところがその人は、友達を駅まで車で送ったり、飯をごちそうしたり、出産祝いをプレゼントしたり、車いすの客のためにエレベーターを開けておいたりするのだ。それも自らすすんで、嬉しそうに

金ない・・・でも働きたくない」とぼやきながらパチンコ屋に並ぶ怠惰な男だって例外ではない。彼は運よくパチンコで大当たりを引いたら、「今日勝ったから奢ったるわ」と友達を呼びつける。

人を喜ばせることが好きなのか、嫌いなのか、いったいどっちなのだろうか?

口先では労働を嫌悪する僕の友達はケースワーカーをやっているが、次のようにぼやいていたことがある。「クソみたいなクレームに付き合わないといけないから、本当に困っている人を助ける時間がない」と(そして彼は精神を病んで休職した)。どのような業界であっても、このような不満を耳にしないことはないであろう。「クソどうでもいい報告書のせいでサービスのための時間がとれない」だとか、「クソどうでもいいカタログスペックを追求させられるために、本当にいい製品をつくることができない」だとか。

こうした事態から次のような結論を導き出すことは、さほど不自然ではないだろう。人が労働によって精神をむしばまれ、労働を嫌悪するとき、その原因は「人の役に立つことができないから」である、と。

もちろん、過度に役に立つことを強要されて病むケースもある。ワンオペの牛丼屋や、連勤と夜勤に苦しむ介護職、こうした人々は多くの時間で人の役に立つことをやっていて、その結果、これ以上他者に貢献したくないという感覚を抱く。とはいえ、彼らが他者への貢献を嫌悪することは、人が怠惰である証拠にはならないだろう。どれだけラーメンが好きであっても腹いっぱいに食べた後にさらにラーメンを食べることを強要されれば、その人は拒否する可能性が高い。だからといって、その人がラーメンが嫌いである証拠にならないのと同じである。

となると、人は他者に貢献できないことや、逆に過度に他者への貢献を強いられることを嫌悪しているだけであり、本質的に貢献を嫌悪しているわけではない。むしろそれを欲しているのである。

まったく人の役に立つことのない人生を想像してみれば、そのことは明らかだろう。あなたがこれからの人生で一度たりとも他者に貢献することなく、ただひたすら貢献を受け取るだけの貴族として生きていくことを想像してみてほしい。朝起きてボーっと突っ立っていれば、美しい次女があなたを着替えさせてくれて、その間にウェイターが豪華な食事を部屋に運び込む。それを食べている間、あなたの好きなアニメや映画が流れ、あなたはボケっと鑑賞する。その後、昼食までの間はあなたを退屈させまいとゲームや漫画、スポーツなど、あなたが望む娯楽が次々に目の前に提供される。ランチやディナーは舌の肥えたあなたのために世界中からの珍味が提供され、夜には美女があなたの周りを取り囲み、全身の性感帯を刺激してくれる。なるほどそのような生活は一見すると魅力的に感じるが、一週間もしないうちに気が狂ってしまうだろう。望むならそのような生活ができる貴族や大金持ちが、慈善活動に精を出すことは周知のとおりである。それはノブレスオブブリージュを叩き込まれた結果であると僕たちはイメージするが、たんなる貴族や金持ちによる精神的自己防衛なのではないだろうか? ある意味で、怠惰でワガママな王は勤勉でもある。酒池肉林に適応するのにも一定の精神的努力が必要なはずだ。

つまり人が健康に生きるためには一定の食事が必要なのと同じように、一定の他者への貢献が必要なのである。しかし現代では、それを一切はぎとられているか、過剰に、搾取的にやらされているかの二択なのだ。

昭和の時代に精神病にかかる人が少なかったのはこれが原因ではないだろうか? 昭和の時代に求められた労働は、直接的に他者への貢献につながる可能性の方が高かった。そして、現代のように他者への貢献を行うエッセンシャルワーカーがいまほど低賃金に苦しんでいたわけではなかった。人の役に立つ労働をしていてもなお、家族を養うだけの収入を得られていた傾向にあったわけだ(中卒の労働者が、一軒家を持つことなど、今では考えられないというのに、当時は当たり前だったのだ)。むろん、危険な労働もあったし、環境破壊も著しかった。パワハラやセクハラも横行していたことだろう。だが、それでもなお、苦痛に耐え忍んで人の役に立つ労働は、人を苦痛に耐え忍ぶだけの理由を与えてくれたのだ。苦痛に耐え忍んでも人の役に立たないし、家族を食わせるための十分な収入も得られないのであれば、誰がその労働に耐えられるというのか?

「昭和の時代に比べて、現代の労働は楽になっているはずなのに、鬱とか言ってるやつは甘え」という年配者の愚痴が的外れなのはこうした点だろう。なるほど、僕自身が経験していない時代を美化しすぎていることは否定できない。たんに精神病の存在が広く認知された結果「俺も鬱! だから救ってくれ!」というかまってちゃん弱者ムーブにゆとりに浸りきった人々が飛びついているだけという側面もあるだろう。

しかし、この状況はそれだけでは到底説明できない。説明できないにもかかわらず根性論ですべてを説明してしまえば、人が人の役に立つためには根性が必要であるという風潮をより強めてしまう。つまり、奮い立たせた根性によって自らの怠惰な本性に逆らう行動をとらない限り、人が他者に貢献することはないという価値観を、人々により強く植え付けてしまうのだ。

人は怠惰ではない。他者への貢献を欲望している。つまり、貢献欲を持っている。もちろん、それは人間が持つあまたの欲望の1つにすぎない。それでも、あきらかに強力な欲望である。自分で食えばいいのに、わざわざ鳩に食パンをちぎって与えるホームレス。セックスできるわけでもないのにパパ活に勤しむおっさん。自己犠牲的に推しに貢ごうとする若いオタクたち。こうした形で貢献欲を発散させなければ、彼ら彼女らは精神を保つことができないのだろう。

いや、それは自らの評判を高めるなど見返りを求めるための行為であって、他者への貢献を欲望しているわけではない」と人々は反論するかもしれない。もちろん、そう解釈することもできる。だが、その人が純度100%の貢献の心で満たされていなければ貢献を欲望したことにならず、逆に1%でも見返りを求める欲望があったなら「見返りを欲望している」と認定する理由はなんなのか? それは「人間は怠惰で、利己的である」というドグマを守りたいからに他ならないのではないか?

このドグマを捨てて、もう一度、事実を冷静に、色眼鏡なく観察してみよう。人は見返りを求めることもあるし、貢献することそのものを欲望することもある。どちらの事態もそれなりに観察される。なら、人には多様な欲望があると結論づけるのが、知的に誠実な態度ではないか。

人は見返りを欲望するのと同じように、多かれ少なかれ貢献を欲望する。だが、その欲望は抑圧されているか、搾取されている。そういう社会システムが成立していることを否定できる人はいまい。なら、社会システムに問題がある。

人が怠惰なのではない。あなたが怠惰なのではない。むしろ社会の方が怠惰なのだ。人の貢献欲を適切に引き出し、人々が満足感を抱きながら他者に貢献できる社会システムを生み出すという、社会と呼ばれる存在が果たすべき役割を放棄しているのだ。

そろそろこの状況を変えなければならない。アンチワーク哲学でね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!