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最近なにをやってもあかんわ

もうなにをやってもあかんわ
もうなにをやってもな

岡崎体育『なにをやってもあかんわ』

最近はいろんなことをやっている。例えば、アンチワーク哲学のテーマソング制作である。

一回ほぼ完成まで行った。しかし、白紙に戻して、もう一度作り直している。大まかな構成はできてきたのだが、細部がどうしても決まらない。ギターとオモチャのピアノと作曲アプリとメモアプリを行き来しながらあれこれやっては、何も進まず、放り投げる。

「noteでも書くか」と書きかけになっている生命に関する考察を深めていくも、どうにもロジックが上手くハマらない。僕は生命や行為そのものの定義からアンチワーク哲学の欲望肯定を演繹できるのではないかと考えてトライしているのだが、袋小路に行き詰まってばかりいる。

同時進行で、本の執筆も計画していたが、ここ2週間ほどは頓挫している。

結局なにも手がつかず「ゲームでもやるか」となる。ところが、ゲームはゲームでどうにも熱意をもって打ち込めるような作品がない。「本でも読むか」となっても、読みたくなる本もない。せいぜい「料理でもするか」とか「掃除でもするか」となって、ちょっとした創作料理を作って満足する程度。

とにもかくにもやる気がでない。端的にいえば、いま、僕の人生から情熱が失われているのだ。

人は部屋の中でじっとしていられない生き物であるとパスカルは言った。その通りだろう。僕は部屋の中でダラダラとYouTubeを見ているような生活は(1週間くらいなら構わないけれども)耐えられない。何か目標を持って、トライしたいのである。

だが、目標は持てばいいというものでもない。テーマソングの例からもわかるように、目標に到達する見込みが薄いときは、なにに手をつけていいのかもわからず、その情熱は失われていく傾向にある。少し待てばなんらかのブレイクスルーがやってくればいいけれど、やってこない場合の方が多い。

こうなってくると人生に必要なものが見えてくる。まずは目標。そして目標を実現するためにどんな作業に着手すればいいのかが明確であること、である。

もちろん、曲がりくねっているのが人生だ。作業に着手するうちに作業自体が目的化し、もともとの目標がどうでも良くなることもあり得る。また、全く違う場所に到達することも珍しくはない。しかし、このことを悔やむような人は少ない。

ニンテンドーの創業者がどんな人なのかは知らないが「くっそ、花札の会社として成功したかったのに、どうしてこうなったのだ…」などと天国で悔やんでいる事態は想像できない。元々思っていたのとは違うけれど、「ま、いっか」と感じていることだろう。

もちろん、それで借金がかさみ、カイジのような人生を歩むことになったのなら後悔はするだろう。しかしそれは、借金が嵩んだことに対する後悔であり、目標がブレたことに対する後悔ではない。

カイジのような人生を歩まないことは重要だ。だが、その点をクリアできたとして、次に重要なのはやはり夢中で取り組む何かがあることではないだろうか。目標とはあくまで建前にすぎない。パンがマーガリンを食べるための建前であるように、目標はプロセスのための建前なのだ。

何かに夢中になって行為すること。目標が欲しい。「労働なき世界」は僕にとって目標だが、そのプロセスは見えてこない。こうして日々、noteを書くことしかできないのだ。

あかんわ。なにやってもあかんわ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!