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わかりやすい文章を書きたいのだ

この前の記事。1万字ほどの長文である。

これは僕にとってもメモの意味が強いので、人にわかりやすく説明するという意図をそもそも欠いたものだ。なんの前提もなしに読み始めると、おそらく意味不明だろうと思う。

わかる人だけわかればいい。なんて僕は思っていない。多くの人に理解してもらえる文章を書きたいのである。はて、困った困った。

思うに、わかりにくい文章というのは、そもそも問題意識が共有されていないことに原因があると思っている。件の僕の文章は、「社会に通底する労働観を更新したい」という問題意識から書かれているわけだが、普通の人からしたら「ふーん、で、それって意味あるの?」と一蹴されてしまうだろう。

僕はBI導入を渇望するBI信者だ。BIに対するオーソドックスな反対論として「誰も働かなくなる」や「インフレする」がある。僕はその懸念は端的に誤りであると考えていて、その誤りの根本原因が現在の労働観の誤りであるように感じている。

故に、労働観を更新することで少なくとも理論的にはBI反対論を棄却できる状況にしておきたいと思っている。もちろん、理論的に棄却することと反対論者を納得させることの間には人類が長い間飛び越えられずにいた深い溝があるのだけれど、いずれにせよ理論的には棄却したかった。

そういう僕の想いに共感してもらえないなら、こんなもの駄文もいいところである。

最近僕はハイデガーの『存在と時間』を読んでいる。この本は、哲学史上トップクラスの難解さであると評判なのだが、意外とそうでもないと僕は感じている。それは僕が頭がいいからという理由ではなくて(もちろん、それもあるとは思うけれど)僕の問題意識とハイデガーの問題意識に重なりがあるからだと思う。

問題意識が重なっていればひとつひとつの記述には「あー、そりゃあその順番に考えていかにゃならんよなぁ」と納得できるのだが、そうでなければ「は? はよ結論言えよ」となるのである。

僕は労働観を更新するにあたって、人間がどんな風に存在を意味づけし、行動しているのかを知りたい。それがわかれば、人間の行動の動機がおおよそ解明でき、動機が解明できれば人間がどのような行為なら進んで取り組み、どのような行為を嫌悪するのかがわかると考えたからだ。

そして、どのような行為を進んで取り組み、どのような行為を嫌悪するかについての世間の常識が誤っていることを明らかにしたい。

ハイデガーは労働観の更新という目的のためではないにせよ、僕が知りたいことを純粋な思索によって追求した。「それってあなたの感想ですよね」という反論はここでは無意味である。なぜなら、人間の思考様式の研究において自分の思考を突き詰めることは、カエルの研究においてカエルを観察するのと同じだからである。カエル研究者がカエルを研究するのをみて「それってあなたの感想ですよね」などと言われる謂れはない。

人間の思考を外部から観察することは今のところできない。脳の構造から逆算して、人間の思考様式を推察することもできなくもないが、やはり最も信頼できる研究方法は自分の思考を観察することである。それにいずれにせよ、脳の構造から人間の思考様式を推察するにも、まず初めに哲学的な探究がなければどうにもならない。仮説もなしに研究などできないのである。

例えばジェフ・ホーキンスは『脳は世界をどう見ているのか』で、脳が単一モジュールによるカラム構造をしていて、空間的なモデルを時間的に変化させることで世界を認識していることを主張したが、これはカントが人間のアプリオリな思考様式が空間と時間であると主張したことを裏付けるように見える。ホーキンスがカントを読んだことがあるかは知らないが、似たような仮説からスタートしなければそもそもこんな研究はしていないだろう。

ただ、カエルなら何匹でも観察できるが、自分の思考は1つしか観察できないのは難点ではある。だが、人は普通、自分の思考様式について盲目であり、ましてやそれを人に説明することなどできない。故にそういう変態的なアクロバットをこなしている哲学者たちから意見を得て、その上で自分の思考様式と照らし合わせるしか方法はないのである。

また話が逸れてきた。要するに、人に文章を読んでもらうには、問題意識を共有してもらう必要があるのだ。

問題意識を共有してもらうには、その人の問題意識を知る必要がある。そして、僕と読者の問題意識の重なる部分から、僕の問題意識に共感してもらう必要がある。

さて、それは具体的には何なのだろうか? 労働観の更新という僕の問題意識と、世の人々の共通するものとは何なのだろうか?

「楽しいことだけしていたい」という感覚は誰にだってある。ただ、それが可能ではないと思っているが故に、「楽しいことだけしていたい」という議論に誰も参加してくれないのだ。それを可能かもしれないと思ってもらうことが、まず真っ先に取り組むべきことなのかもしれない。

ただし、そもそも「楽しいこと」が何なのかを理解するには、労働観の更新が必要だと感じているのである。なぜなら、現在「労働」という言葉が意味する対象の中に明らかに楽しい行為が含まれているからだ。

あー堂々巡りである。今日は考えるのをやめにしようが。

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