本なんて、読めば読むほど不幸になる

読書の効用について語るネット記事は掃いて捨てるほどある。大富豪はみんな読書家だとか、本を読めば年収があがるとか、思考力が身につくとか、そんな話だ。「気をつけて読書しないと自分の頭で考えられなくなるよ」と、否定的なことを言ったショーペンハウアーすら、読書はいいものだという前提に立ってるように見える。

僕も以前は読書とは良いことだと思っていた。しかし、最近になってその確信が揺らいだのだ。

僕はおそらくアマチュア部門なら都道府県大会で準優勝できるくらいの読書家だと自負している。めちゃめちゃ本を読む。哲学、宗教、生物、物理、歴史、心理、文学‥とまぁなんでもありだ。

それで僕は何かメリットを得ただろうか? 確かに知識は増えた。頭を使って考えることも覚えた。これまで当たり前だと思っていた物事の背景や理由を考えられるようになった。他人の心をより立体的に捉えられるようになった。たぶんね。

そんなことをしていると、どうにも頭の中が複雑になってくる。いや、ある程度は理路整然としてはいるのだけれど、それを人に説明するのには膨大な時間がかかる。むずかしいことをシンプルに説明することは大事だけれども、言葉を覚えたての子供に川端康成の魅力を伝えることはできない。

何を言いたいのかといえば、僕は、自分の意見や価値観を人と共有できなくなってしまったのだ。

例えば僕は友達と『ドライブマイカー』を観に行ったわけなのだが、僕はラカンで読み解けばこの映画は面白いのだと気づいた。しかし、たぶんラカンを読んだことのない友達にそのことを説明するのはためらった。あまりにも衒学的だし、無意味だからだ。ラカン抜きでこの魅力を説明しようとしたところ、なんとも中途半端な反応を引き出して、結局議論が盛り上がることはなかった。

彼は大学院も出ているそこそこのインテリで、読書家でもある。ならば分かり合えそうなものだが、そうとも限らない。彼は僕とは違う知識を持っていて、僕とは違う思考回路を持っている。

知識というのは無限に存在させることができるわけだから、一般教養からはみ出した勉強をし始めれば、それが全く同じコースを辿ることはあり得ない。無限に分岐する知識の旅路を、誰もが孤独に歩んでいくことになる。

僕と彼が分かり合える部分もあるが、根本的に前提知識や価値観が異なる部分も大いにある。考え方がぶつかるギリギリのところまで接近すれば、僕は核心に踏み込まない。踏み込んだらどうなるか知っているからだ。

なまじ、知識を持つ人は、他人の話を誤解するのも得意だ。本来理解できていないものを自分が持っている知識で無理矢理に解釈することができる。結果的に、自覚のない知ったかぶりが起き、ぎこちない会話だけが進行していくことになる。核心に迫った時に待っているのは、大抵こんな事態だ。とことん疑問点を質問して、とことん付き合っていく議論をしていけば、あっという間にラストオーダーの時間がやってくる。

ラカンの魅力を語りたければラカニアンの集いに行けばいい‥というのも、解決にならない。複雑な知識は誰しも自己流の解釈をすることになるため、結局のところ耳の聞こえない者同士の会話が繰り返されることになるのだから。

本なんて、読めば読むほど孤独になる。

なるほど、読書家でない人でも「自分は理解されていない!」と感じることはあるだろう。しかし僕は本を読むことで、その苦悩を何倍も味わうようになった。何倍もだ。読書には、この苦悩を補って余りある効用があるだろうか?

知識や思考自体に大した価値はない。人間としての価値をなんら向上させるものではない。それは、ただの可能性に過ぎない。人間は生き様でしか世界に影響を与えることはできない。ならば僕が一生懸命、知識を得て、頭をこねくり回すことに、一体どんな意味があるのだろうか?

僕は何かを成し遂げることなく、すぐに飽きてしまうことが多い。ご自慢の知識も、なんの役にも立たない。だったら僕は何のために本を読むのだ?

楽しい。そのことは確かだ。自分なりに解釈して、自分の世界観を更新し、新しい思考の扉を開く。しかし、それが誰かに共有されることもなければ、世界に影響を与えることもないことを思い知り、ただ絶望の底に落ちていくだけ。

生きていくのに知性は大して必要ではない。現代人の知能は相変わらず狩猟採集民に勝てない。もし知性が役に立つなら、時代を経ていくごとにどんどん人類のIQが上がっていても良いのに、逆の現象が起きているわけだ。大脳新皮質のことを「脳にできた腫瘍」と表現したアーサー・ケストラーは正しかった。知性なんて邪魔者だ。

ここにこうやって考えをまとめるのは、僕なりの救難信号なのかもしれない。誰か僕のことを理解して「すごいね」「君の言う通りだね」と言って欲しいのかもしれない。逆に、ここでまとめればまとめるほど、口で説明するのがむずかしい思考が生み出されていくというのにね。

哲学者たちも、称賛してくれる人が欲しい。また、そうした批判を書いている本人も、批判が的確だと褒められたいがために書くのだ。また、その批判を読んだ者も、それを読んだという誉れが欲しいのである。そして、これを書いている私ですら、おそらくは、そうした願望を持っているだろう。また、コレを読む人だって…
パスカル『パンセ』

本を読むのも、そこで得た考えをお披露目するのも、アヘンのようなものらしい。活字を求めて回し車を回し続ける愚かなラットが僕だ。

本読むのやめようかな。ほんと、参っちゃうね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!