子どもはレジャー施設を消費できない

どんなレジャー施設にも、目玉となるモノや動物などが存在するものだ。和歌山アドベンチャーワールドの場合はそれはパンダということになる。「あの有名なパンダ」だ。

大人はそれを一目見て、写真を撮って、パンダにちなんだレストランメニューを食べて、パンダグッズのお土産で鞄をパンパンにして、満足して帰る。

パンダそのものを肉眼で観察している時間は、大抵の大人の場合は数秒にも満たない。まるで、その場を楽しむことではなく、お土産と写真を残すためだけに遠路はるばる旅行してきたかのようだ。

もちろんアドベンチャーワールドはパンダ専用施設ではないので、他のアトラクションやショーも存在する。大人は、「せっかく来たのだから」と言って、園内マップと睨めっこしながら、1つでも多くを消費しようとする。

「これはつまらないから、さっさと次に行こう」という言葉は、大人からは出てこない。アトラクションを1つ消費したとみなされるためには、写真と、最低限の時間それを鑑賞したという事実が必要なのだ。それに、つまらないアトラクションが存在するという事実を認めてしまえば、「楽しかった旅行」というイメージに傷がついてしまうため、なんとしてもそれは避けなければならない。逆に、そのアトラクションで楽しそうに遊ぶ写真を1枚でも残しておけば、「楽しかった旅行」というイメージをさらに強固にできる。

もちろん、目玉であるパンダ鑑賞に対して「つまらない」という評価を下すことは言語道断だ。パンダはこの旅行を象徴するイメージであり、それへのマイナス評価は、旅行すべてを台無しにするほどのインパクトがある。

しかし、ここまで述べたことは全て大人のゲームであって、子どもにとっては関係がないのだ。

子どもはパンダに対して「つまらない」という評価をいとも簡単にくだす。目の前にしても楽しそうな表情を見せることなく、さっさと他の場所へ行こうとする(まぁ、「有名な」とか「珍しい」という色眼鏡を外せば、数多に存在する動物の一種に過ぎないのだし、当然だ)。

そして、なんの変哲もない石ころや草花と戯れてキャッキャと笑っている。ショーを見ている間も退屈そうにしながらお菓子を要求したりする。

「あの有名な」という文脈は、子どもにとっては関係がないし、「この旅行は楽しかったというイメージを形成しなければならない」とか「せっかくだから、この土地ならではのものを楽しまなければならない」という義務感も子どもは持ちあわせてはいない。

ただ、楽しければ楽しむ。そうでなければ楽しまない。

レジャー施設に訪れる客は、消費者に過ぎない。自発的に楽しみを発見するのではなく、ただ与えられたエンタメを、想定通りに消費することを求められる(いつ拍手すべきかも、いつ声を上げるべきかも、全て指定される)。それは至ってインスタントなエンタメ。近所の公園や河原を自由に散策して、自分なりの楽しみを発見する遊びに比べれば、ひどく低レベルの娯楽だ。そんなものは、大人特有の義務感がなければ、楽しむに耐えない。

レジャー施設とは、本来楽しくないものを、「楽しまなければならない」という義務感で楽しむための施設だ。そのマニュアル通りに楽しむことが、大人の勲章となる。インスタグラムに写真をアップしたり、友人にお土産を渡したり、お土産話しをしたりすることで、消費はひとまず完了する。そしてその後の人生においても思い出話として度々消費する。

僕は子どもの頃、レジャー施設に出かけるのを嫌がって、1人で留守番をするようなこともあった。つまらないものはつまらないのだ。

しかし今では立派な消費者にフリをして楽しみながら、子どもにもそれを強要する素振りを、妻に対して見せつけている。こっそりショーのスケジュールを無視したり、雑草と戯れる息子と一緒に遊んだり、大人の義務をわずかに狂わせる程度の反抗をすることしかできない。

なんだか虚しい。僕たちはもっと子どもの頃の気持ちに帰るべきなのかもしれない。近所の雑草に目を輝かせたあの頃に。

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