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僕たちは本当に「子孫を残したいだけ」なのか?

「男なんて結局やりたいだけ」と言ってシニカルに恋愛相談に乗る女は洗練されて見えるし、「ぶっちゃけやりたいだけ」と言って開き直る男はクレバーに見える。

そういう風潮のせいで、男が女に優しくする行為の究極の目的はセックスであるとみなされる場面は多い。Twitterで病みアカウントに慰めのメッセージを送るのも、キャバ嬢に4℃のアクセサリーをプレゼントするのも、迷っている観光客に道案内するのも、すべて「やりたいだけ」というわけだ。

しかし、次のように問われることはない。「なぜセックスしたいのか? 本当の目的はなんなのか?」と。

要するに「セックスしたい」は真の動機足り得るが、「迷っている観光客に優しくしたい」や「病みアカウントを慰めたい」「アクセサリーをプレゼントしたい」は真の動機足り得ないわけだ。

(同様の現象は「金」に対しても起きる。「地球温暖化を止めたい」が真の動機として認定されることは稀だが、その人が「まぁ本当は金のためなんだけどね」と言えば、誰もその言葉を疑わない。グレタトゥンベリーが「私は中国人から金をもらうためにやってる」とかなんとか言えば、陰謀論者は大満足だろう。)

しかし、ここで問いたい。「セックスしたい」と「アクセサリーをプレゼントしたい」は何が違うのか? なぜ前者は真の動機と認められ、後者は仮初の動機としか見られないのか?

真っ先に噴出するのは、なんちゃって利己的遺伝子論を持ち出しての反論だろう。遺伝子の拡散につながるセックスが遺伝子の乗り物たる我々の究極目標(いや、それは目標のように意志を持つことはなく)であり、人にプレゼントするのは遺伝子の拡散に寄与しないため究極目標足り得ない、というわけだ。

この理論によれば、人は24時間365日、自分の遺伝子を拡散することか、少なくともそのために役立つことしかしないと想定される。もしそうでない行為(例えばキャラメルフラペチーノを飲んだり、切手集めに勤しんでいたり)に熱中していたら、それは現代の暮らしと太古の時代の差異を想定できなかった遺伝子のバグであるとみなされる。

しかし、僕はあえてこれに真っ向から反論したい。新たな理論、『余暇追及遺伝子論』によってだ。

僕がnoteを馬鹿みたいに更新するのは、遺伝子の拡散とはなんの関係もないことは、自分の心を少し点検してみればわかる。それに、役立たない行為に邁進する生き物は人間だけではない(僕が敬愛してやまないニワシドリなんかはその典型だ)。

ではなぜそんなことが起きるのか?

リソースが十分に有り余っているにもかかわらず、必要以上に子孫を残そうとしたり、食べ物をかき集めようとすると、ゼロサムゲームの囚人ゲームの果てに種ごと滅ぶ可能性がある。だから、ほどほどのところで仕事を終えて役に立たない暇つぶしに邁進することは遺伝子にとっても合理的なのだ。

恐らく人間をはじめ多くの生物は、そのステージに到達してからしばらく時間が経っている。だからこそ、遺伝子拡散には役立たないことに邁進することは、もはや本能と化している可能性もあるのだ。というか、人間のあれこれの活動を見ているとそうとしか僕には思えない。

ならば、ある程度の衣食住が保障された人間の究極目標は「暇つぶし」と言ってもいい。それが究極目標であるなら、セックスを渇望するのと同じように、プレゼントすることや人助けすることを心の底から渇望することもあり得る。人間の行為1つひとつを、それ自体で独立した欲望としてみなすべきなのだ。

実際、常時、給料日に風俗にいくことを思い描きながら仕事をする人が存在するわけがない。仕事ひとつひとつの工程は、仕事そのものが目的になっているはずだ。

「人が真に望むものは何か?」という問いに対して、僕たちは「セックス」という貧相な答えしか持っていない。全てを遺伝子の拡散に関連づけるやり方は僕から言わせれば「こじつけ」であり、宗教じみている。

裏返せば、僕たちに遺伝子拡散に役立たないことに邁進する本能が搭載されているとするならば、遺伝子拡散に役立たない行為に邁進することは合理的ですらある。つまり、何が必要かと言えば「余暇」なのだ。訳のわからないことに熱中する余暇活動こそが、人類を救うとすら言える。

なんということだろうか。ヨカ神は全てを知っておられる。それもそのはず。ヨカ神がこの世界を生み出したのだから。

余暇を追及せよ。労働だけが罪なのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!