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何が出産を窓口対応にさせるのか?

昨日、娘が生まれた。

生まれたあとは幸福に包まれて、それまでの苦労(といっても僕自身の苦労はほとんどないのだけれど)もすべて吹き飛んでいくような気がしていた。

1日経って幸福の熱量が落ち着いてくると、「これっておかしくないか?」と思い返すことが増えてくる。

妻にとって出産は命懸けだ。だが、とりあげてくれた助産師や看護師にとっては、どうもそうではないように見えた。

出産の30分前ほどだろうか。妻は「もう限界」と言ってナースコールを押した。しばらくすると看護師がのそのそとやってきた。「大福をつまんでいたら宅急便が来た」とでも言うようなリラックスムードに見えた。

妻の様子を一瞥した後、「分娩の準備しますねー」と看護師は言う。よかった。もうすぐに産める。そう僕も妻も安心した。

ところが、なかなか分娩の準備は進まない。折れ線グラフが常時印刷されていく謎のシートが切れたらしく、ちんたらと替えのシートをセットして「あれ? おかしいな?」と言いながら機械を再起動していたり。よくわからない書類にあれこれと書き込んでみたり。分娩グッズ的なものを取り出してきてはドタバタと準備し始めたり(「それ、事前に準備しておけなかったのか?」と思わずにはいられないようなものばかりだった)。

そして気づいたら看護師は裏に引っ込んだ。きっと何か特別な準備が必要なのだろう。そう思っていたが、5分も10分も経ってもなかなか出てこない。妻の「もう限界」もそろそろ限界に差し掛かってきて、僕はもう一度看護師を呼んだ。

すると「助産師さん呼ぶのでちょっと待ってくださいねー」と言われた。逆に呼んでなかったことに僕と妻は驚いた。

しばらくして助産師がやってきた。妻の様子を一瞥して「分娩の準備しますねー」と言いながら、あれこれと備品を並べ始める。「なぜこの準備を看護師がやっておかなかったのか?」と思わずにはいられない。そしてまたあれこれと書類を書き込んでいる。

妻は身をくねらせながら悶えているが、看護師や助産師は「まだ力まないでくださいねー」「はい我慢してねー」と唱える。「先に食券買って並んでくださいねー」くらいのテンションだ。

そして、書類を書き終えた助産師は妻に問いかけた。「シャワーありの部屋か、シャワーなしの部屋かどっちがいいですか?」と。妻は「なしで!!」と叫んだ。「それいま聞かなアカンことか?」を意味する叫びだろう、と僕は思った。

結局「もう限界」を迎えてから30分は経った頃に、ようやく分娩がはじまった。2~3回くらいいきんで、娘は生まれた。結果論ではあるものの、これならもう少し早く妻を解放させてあげられたんじゃないかと思う。

あれこれと準備をしている間、彼女たちは妻の様子をほとんど気にかけていなかった。体調を尋ねたり、子宮口の様子を観察したりすることもほとんどなく、単に機械に表示された数値を軽くチェックする程度だった。母子の安全やスムーズな分娩には何の影響も及ぼさない書類仕事には夢中になっているというのに。

もちろん、彼女たちは悪くない。助産師も看護師も何百回も出産の現場をみてきていて、妻は2回目。「どうせ大袈裟に言ってるだけだからギリギリまで粘らせて出した方がいい」とか「呼ばれてから準備したらちょうどいいくらいの時間になる」という経験論を身につけているのも理解できる。1件1件、全力投球していては身が持たない。その結果、こちらをあしらうことしか考えていない窓口対応のような出産だったという感想を抱かずにはいられなかった。

できれば周りの人々にも全力投球してほしい。妻は命懸けなのだから。ならば問うべきは「何が看護師や助産師をそうさせるのか?」だろう。

正直、僕にはわからない。出産が官僚制の毛布に包まれているからなのか。僕たちから取り上げられて病院に独占されるようになったからなのか。

何かが間違っているような気はしている。結果的に生まれたからもういいのだけれど、釈然としないものがある。とは言え、「釈然としない」と宣言すれば、釈然とすることの方が多い。僕は多少、釈然としてきた。

さて、忘れよう。娘が生まれて、これからやることはまだまだあるのだから。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!