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効率を追求するのは「それ効率悪いよ」と言われないため

‥と思っているのは僕だけだろうか。

事実、「それ効率悪いよ」と言われたときに「なんてこった! 確かにあなたの言う通りだ! 即座に僕のやり方を改善しよう!」などと反応するケースは1割にも満たないように思う。

むしろ、怪訝な表情で「いやまぁ、こっちの方が慣れてて早いから‥」とか、しどろもどろの反論をして有耶無耶することがほとんどだろう。

このこと自体は奇妙なことだと言わざるを得ない。現代においては効率を追求すべきであることに、誰しもが同意している。しかし、もし本当に効率を最優先しているなら1割の方の反応で世間が溢れかえっていなければ辻褄が合わない。

実際、僕たちは効率をほとんど求めてはいないのだ。僕たちが本当に求めているのは、自ら試行錯誤しながら効率を追求することであれ、古臭い習慣を踏襲することであれ、「自分のやりたいようにやること」ではないだろうか。

そこで「効率を求めなければならない」という言説は、一種の道徳律として機能している。

非効率なことをしていると誰かに文句を言われる。文句を言われると「自分のやりたいようになること」という状況が損なわれる。文句を無視したとしても、不愉快さは反響したまま残っている。

そうならないために、人は自らの意志で効率を求めようとするのではないだろうか? 効率を追求することは、さながら真夏にスーツを着ることのような道徳的な行為なのではないだろうか?

どうすれば効率がいいか試行錯誤するのは楽しい。だが、それは自分の頭で考えられる場合に限る。人にアドバイスされながら、見守られながら、「あーもう、それ違うってば!」などと言われながら効率を追求することほど不愉快な出来事はないのだ。

僕はそんなふうに効率に対して割り切っている。つまり、効率よりも、自分が気持ちよくやれることを何よりも重視する。その姿を見て「効率悪いよ」などと言われたときは「いや、そもそも効率っていうのは効率が悪い。なぜなら‥」などと狂人のフリをしながら反論して「もういいから好きにしろや‥」と相手が折れるのを待つ。

素直に効率を盲信できたなら、もしかするともっと楽に生きられるのかもしれない。だが、僕は楽に生きることにすら興味がない。滞りなく進む人生など、生きる価値はないだろう。わけのわからない紆余曲折を経て、わけのわからない場所に行きたい。そういう人生の方が面白いはずだ。

死が人の完成なら、生とはいつ終わるとも知れない寄り道である。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!