金を稼ぐ、という変態的な縛りプレイ

親父たちは「悪銭身につかず」というが、世の中には悪銭でない銭などない
寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

金がなければ生きていけない体に仕立て上げられた僕たち。兎にも角にも、金。しかし、金へのアクセスはどうにも制限されている。

人の役に立てば金がもらえるかと言えば、無論そんなわけがない。日がな一日、街のゴミを拾っている無職の男は僕よりも役に立っているが、彼はそのうち野垂れ死ぬかもしれない。飢えた子どもにご飯を作る活動をしている現代のマザーテレサは最新のiPhoneを買う余裕はないだろうし、トイレ掃除をするおばちゃんの給料は最低賃金を割っていたりする。

一方で、ピュアな若者を騙くらかしてブラック企業へ誘い込むという悪どい商売で、僕は年収500万円かそこらを得て、温かいベッドで眠っている。

必要もないリフォーム工事や投資マンションを売りつける人や、法律の抜け穴をつく助成金ヤクザ、派遣会社の社長は掃除のおばちゃんの10倍以上稼いで、ツーショットキャバクラで武勇伝を語りソープでスッキリする。

彼らはもちろん、人の役に立っていない。搾取しているだけだ。それなのに大金を稼いでいるのだ。このシステムは果たして健全だろうか?

もし彼らが心を入れ替えて街のゴミ拾いを始めようと思ったら、途端に生活が苦しくなる。ならば、きっと彼らはゴミ拾いの道を諦めるだろう。このことについて、どう思うだろうか?

人の役に立ちたいと思っている人が、金が稼げないという理由で人の役に立つことを諦めて、人の役に立たない仕事に甘んじているなら、それはどう考えてもシステムが狂っているとは思わないだろうか?

しかし、こんな本も売れていることからもわかるように、人々は「金を稼ぐ」という縛りプレイをしながら、社会の役に立つことをしようとする。

その考え方はもちろん立派だと思うけれど、なぜわざわざ縛りプレイをする必要があるのか、僕にはわからない。縛りプレイを攻略できる変態的な天才しか、人の役に立つことができないなら、縛りを解いてしまう方が効率がいい。そうすればバカでも人の役に立てるではないか。市場とか資本主義っていうのは馬鹿みたいに非効率なのだ(作った飯や服の半分を捨てて、1キロカロリーの飯を摂取するために10キロカロリーの化石燃料を燃やしている世界を、誰が効率的だと言えるだろうか?)。

そもそも社会起業家というカテゴリーが存在すること自体が狂っている。社会起業家ではない起業家は、社会の役に立っていないことを認めているようなものだ。社会の役に立っていない企業が大多数を占め大金を稼ぎ、役に立つ企業は細々とやりくりしている現状を、道徳的にどうやって擁護すればいいのだろうか? 経済全体が権力と搾取のスパゲッティコードではないと、子どもたちに説明できるだろうか?

結局僕はベーシック・インカムの話ばかりしてしまう。僕の記事を継続的に読んでくれてる人はもううんざりしてるかもしれないけれど、僕はベーシック・インカム至上主義なのだ。それさえあれば、金になろうがならまいが、人の役に立ちそうなことや、役に立たなさそうなことを好きなだけやればいい。そして、ピンハネしたり、人を騙したり、そういう悪いことはやらなくて済む。

金のことなんて考えたくない。これは現実逃避なんだけれども、みんなが現実を見つめ続けた結果、こんな仕組みになっているわけだ。非効率なものは、誰かが大声で「これは非効率だ」と叫ばなければならない。

残念ながら、自分が非効率なことをしていると理解できる人は存在しない。「日本人は非効率が大好きだ」という意見にはみんなが同意するけど「私は非効率が大好きだ」と言っている人に出会うことはない。

「思考停止するな」とか「非効率なことはするな」とか言っている意識の高い人は、僕からすれば非効率なシステムにどっぷり浸かって思考停止しているように見える。でも僕は彼らからすればオーガニックでスピリチュアルなヤバい男なのだろう。

この一言で、僕は顔を真っ赤にして撤退するのだ。

そろそろベーシック・インカムを実現する集いを作ろうかと思ってきた。あんまりまともな集いが見当たらないのだよね。

そうだ作ろう。そうしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!