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人に説明するのはめんどくさい

世の中には2種類の行動がある。説明を要する行動と、説明不要の行動だ。

例えば、食パンにジャムを塗って食べる行動に対して、「なぜ?」と質問する人はいない。しかし、食パンに納豆を乗せて食べる人がいれば、「なぜ?」と問わずにはいられない。

常識に則った行動はスルーされ、常識はずれであれば「なぜ?」に晒される。この「なぜ?」も2種類あって、肯定的(あるいは中立的)な「なぜ?」と否定的な「なぜ?」だ。

前者なら何の問題もない。ややこしいのは後者だ。

後者の「なぜ?」を問いかけてくる人物は、あたかも彼を納得させなければ、僕は指一本たりとも動かしてはならないかのように振る舞う。僕は稟議書にハンコをついてもらうために恐る恐る上司に話しかけている部下のような気分にさせられる。

これは極めて不愉快な体験だ。

むろん、説明することは可能だ。例えば僕がなぜ納豆を食パンに乗せるのかを説明するならばこうだ。

昔、『焼きたて!!ジャぱん』という漫画で、「納豆に合う食パンを作る」というテーマの話があった。普通の食パンに納豆を乗せたら不味いけど、豆乳で作った食パンなら大豆同士なのでよく合う‥という結末だった。しかし、僕はその前提を疑ってかかり、普通の食パンに納豆を乗せて食べてみた。すると普通に美味かった。

ではなぜ、人は納豆パンをまずいと感じるのか? それは、化学的な「味」の問題ではなく、「文脈」の問題であると僕は考える。人はあたかも化学的な成分のみによって料理を評価しているかの如く振る舞っているが、実際のところは料理とは文脈のゲームだ。パンにジャムを塗るという行為は文脈に合致するものの、パンに納豆を塗るという行為は文脈に合致しない無秩序な行為に見える。だから、普通は不味いと感じる。

ところが、「豆乳を使用して大豆で揃えました」という秩序と文脈を用意すれば、人は納得して美味しく感じるケースもある(もちろん納得しない人もいる)。

僕は豆乳を使用しない普通の納豆パンを食べるとき、文脈ではなく味で評価しようと考えた。そして、新しい文脈を作ろうと考えた。要するに、新世界からトマトがもたらされて初めてトマトソース入りのパスタを食べたイタリア人や、初めて唐辛子入りのキムチを食べた朝鮮人の気持ちになって食べてみた。「文脈が形成されていなかったということは、それが不味いからだ」という神話を捨てれば、こういう心理操作が可能になる。

こういう心理操作ができれば、常識的に不味いとされる組み合わせも食える。だから食う。

‥と言ったところだろうか。

文章ならいくらでも書き連ねることができる。しかし口頭でこんなことをいちいち説明しようとすれば、気づいたときには不倫の話か野球中継の話にでもすり替わっていることだろう。万が一、最後まで説明したところでどうせ納得させることない。それに、納得しようがしまいが、僕が納豆パンを食べるかどうかの決裁権は僕が持っているため、不毛な議論でしかない。

ならば、「なぜ?」に回答することは、単に不愉快な想いをするために時間を浪費することに他ならないのだ。

そんなこんなで、僕は人に説明することを避ける。妻にすらそうだ。妻は僕がnoteを書いていることや、最近は早朝からこそこそと業務改革用のスプレッドシートを作成していること、ラップの曲を作っていること、読んでいる本の内容など、何ひとつ知らない。

僕は説明することなく隠れて勝手にやってしまう。そのせいで少し窮屈な想いをすることもある。「noteを書くから1時間部屋に篭るわ」と言いたくなる瞬間があっても言えないからだ。

僕ももっと説明に時間をかけるべきなのかもしれない。説明して不完全でも納得にまで持ち込めば、そこからの振る舞いが楽になる。

でもやっぱりめんどくさい。どうせ否定されるとわかっているのに、説明しようなんて思えない。

僕は自由が欲しい。説明責任のない自由だ。

説明せずに自由になる方法を探そうかな。うん、そうしよう。納得させるのは、「アイツは自由なんだ」だけでいいんだ。そうしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!