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教育サービスとは情報商材である

この情報、衝撃的だった。

1971年には18歳以下の子ども1人あたりの教育費は年間2.4万円だったのが、いまや37.1万円である。物価を考慮に入れていないとは言え、1971年から物価は2~3割程度しか上昇していないことを踏まえると、やはり異常な数値である。

そして18歳を過ぎた後の、大学の学費。これも1971年ごろから比べると5倍くらいになっているらしい。つまり、この50年で、日本人が教育に費やすリソースは膨れ上がっているのである。

では、教育に5倍以上金をかけることで、僕たちは5倍以上の教育効果を享受し、学力が向上し、社会に出て華々しい活躍を遂げるようになり、収入が増え、日本は経済成長しているのだろうか? そうではないことは誰もが知っている(グラフをよくよく見ていると、バブル崩壊前まではおそらく景気の上昇と連動していて、それ以降は教育投資額の増加は若干ゆるやかになっているようだが、それにしても常に上昇傾向にあるのは間違いない)。

これだけ教育に金をかけるようになったのだから、膨大な数の優秀な人材が世間に放たれているはずなのだ。癌の治療薬を発見したり、量子力学の謎を解いたり、CO2をごっそりと空気から除去したり、iPhoneに代わるデバイスを発明したりするような人物が雨後の筍のように現れていてもいいように思う。それこそが教育の効果であると喧伝されているのだから。しかし実際はそのような発明がなされることはなく、5Gのように過剰広告を垂れ流すテクニックを磨いた人物しか現れていない。

学歴は地位材である。要は椅子の奪い合いだ。椅子を奪うために投資する金額が鰻登りしていても、日本は経済成長することはなく、平均的な日本人の収入が増えることはない。もちろん、個人としては勉強して他人を蹴落とすことで収入アップの効果は期待できる。だが、いつしか教育投資額と収入アップ効果を比べて、赤字になる時期が来るのではないだろうか?

いや、実際もう既に訪れている。Fラン大学や文系大学院なんかは、入ったところで数百万円の学費を回収することはできない。Fラン大卒だろうが高卒だろうが大して給料が変わらないのなら、単純に学費の分だけ損をしている。それならば子どもに数百万円そっくりそのままお小遣いとして渡している方がまだ有意義だっただろう。

そして、教育費は上昇が止まらず、日本人の年収が上がらない傾向がこのまま続けば、いつしかほとんどの教育費が無駄になる未来がやってくる。

一握りのエリートだけが投資額に見合った収入を手にし、そうでない大半の人は教育によって損をする。これはまるっきり情報商材である。

「これを買えば好きなことで年収1億稼げますよー」と囁く情報商材屋に騙された人々が、実際には稼げないように、「英語をやれば、アート教育をやれば、プログラミングをやれば将来成功しますよー」と囁くベネッセのような会社に騙された人々は、その果実を受け取ることはない。実際はベネッセが果実に齧り付いているのだ。稼ぎ方を教える人が1番稼げるのは、世の常なのだろう。

もちろん教育の効用は収入アップだけではない。新しい知識を手にすることで子どもが幸せになることもあり得るだろう。だが僕は、子どもが遊ぶのを我慢して夜遅くまで机に齧り付いていること自体が良いことだとはどうしても思えない。

それに、多くの親は教育に収入アップしか望んでいないのではないだろうか。親の頭の中では「幸せになってほしい」とか「夢を叶えてほしい」とか「成功してほしい」とかそういう言葉に変換されているだろうが、結局、親は金を稼げる職業に就くことをイメージしているわけだ。

それ自体は結構なことなのだけれど、教育によって収入アップを目指すのは、徒労に終わる可能性が高まっている。いま、親としてなすべきは「金を稼がなくても楽しく生きていく方法」を教えることではないだろうか。いや、教えることなどできない。親もそれを知らないのだから。

だから僕はそれを一緒に実践したいと思っている。教育のレースから降りて、新しいレースを始めるのではなく、そもそもレース自体をやめるのだ。

教育業界は社会的に壮大な苦労と無駄を生み出し、その成果を日本社会に全く還元していない。丸々なくなってしまった方が日本は良くなる気がする。少なくとも、子どもたちは友達と遊ぶ時間を得られるのだから。

要するに、教育サービスは情報商材。証明完了。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!