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コンビニとサボリーマン

トラックに乗ってあちこちに行く仕事を始めてから、コンビニの有り難みがよくわかる。車を停めてゆっくりコーヒーを飲めるスペースなど、そうそうあるわけではない。よく行くルートにある駐車場つきのコンビニはだいたいチェックし、配達を終えて一休みするのがルーティーンと化している。

すると気がつくことがある。周りも似たような人々ばかりであることに。営業車で昼寝するスーツ姿のビジネスマン。弁当を食べるトラックドライバー。ダラダラとスマホゲームに取り組む職人と思しき若者。サボリーマンにとってコンビニとは聖域なのだ。

コンビニにいることがバレても、なんとでも言い訳はきく。飲み物を買っていた。用を足していた。次の商談までの時間潰しをしていた。あるいはちょっと休憩していたと言っても、そこまで咎められることは稀だろう。これがファミレスとなると話は違ってくる。明らかにそれはサボり目的だと見做されるからだ。パチンコやネカフェ、個室ビデオ店なんてものは論外である(もちろん、それらで時間を潰すサボリーマンもいるのだが)。

僕はかつて電車移動メインのホワイトカラーだったわけだが、その頃はサボるときは喫茶店やネカフェ、個室ビデオ店がメインだった(そこもスーツ姿のサラリーマンで溢れかえっていたが、車が必然的に伴う職人やドライバーはいなかった。余談だが、ふだん真面目な顔で稟議書にハンコをついているスーツ姿のおっさんが、個室ビデオ店でお気に入りのAVを選んで、こっそりシコってるのだ。ダリやマグリットが生きていたなら、この景色をモチーフに選んだのではないかと思うぐらいシュールだ)。なんせ身柄ひとつなのだから、どうとでもなる。しかし、車があると入れる場所も限られてくる。駐車場のカメラやドライブレコーダー、同僚がたまたま通りかかって社名の入ったトラックを見つける可能性、万が一駐車場で事故を起こした場合などを考慮すれば、どうしてもコンビニに偏ってしまう。

逆に言えば、サボリーマンを量産する社会システムだからこそ、これだけのコンビニが必要とされているとも考えられる。端的に言えば、サボっても仕事が終わっているのであれば、サボることなくさっさと仕事を終えて帰った方がいいのである。それができないのは、僕たちが8時間労働(あるいはそれ以上)に縛られた存在だからだ。「終わったんで、昼過ぎだけど、帰りますわ」と言えないからこそ、コンビニはサボリーマンで溢れかえっている。

コンビニのない社会は不幸だが、コンビニを必要とする社会はもっと不幸なのだ。

とは言っても、これはサラリーマンにとっては正当防衛だろう。労働組合に入って「早く帰らせろ」と声を上げることができないならせめて、不完全であっても自由な時間を欲するほかない。僕たちは強いられた労働のほんのわずかな隙間にも、自由を求めるくらいに、根本的に自由を求める。

ただし、これは雇われたサラリーマンに限った話ではないのかもしれない。僕が働く会社では、明らかに社長がやることがないとき(そういうときがほとんどなわけだが)は、デスクでエクセルをいじっているフリをしたり、やたらとコンビニに出かけているのである。別に彼は雇用契約によって8時間労働を強いられているわけではないのだから、パチンコを打ちに行っても、風俗に行ってもいいのである。しかし、それでは社員に申し訳が立たないと考えて、ともかく何かをしているふりをしつつコンビニに行くのである(もっとも社員たちは「やることないなら飲みにでも行けよ」と囁きあっているのだが)。

なぜこのような現象が起きているのかと言えば、やはり僕たちの社会が労働や生産を至上目的としているからである。これ以上、労働や生産は必要ないというのに、未だその発想から抜けきれないでいる。かつて書いたが、これは酸素が生きていくのに必要だからといって延々と酸素ボンベを作り続ける行為によく似ている。

だから僕は余暇を至上目的に据えるべきだと考えているのだ。他の何を差し置いても、余暇が増えることは無条件で良いことである。そう考えるべきであると、僕は著書で語ったわけだ。

しかし、語り尽くしたわけではない。まだまだ語りたいのだ。だが、これ以上コンビニで居座るわけにもいかない。そろそろお暇して、次のサボリーマンのために駐車場を空けなければならない。

ではまた。

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