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プロによるお墨付きで金を稼ぐ方法

プロのダンサーがアイドルのダンスを観ながら褒めちぎるという動画が増えている。この現象を僕たちはどのように捉えるべきだろうか。

結論から言えば、最近のアイドルのファンは「うるせー、下手だろうがなんだろうが好きなもんは好きなんだよクソが」と言う勇気を持ち合わせておらず、「好き」を他人に説明するための根拠や合理性を求めている。

そこでプロのダンサーが必要とされるのだ。ファンがいくら「上手い上手い」と言っても「所詮は贔屓目だろう」となってしまうところを、プロのダンサーは褒めちぎることで文句なしに「上手い」という事実を提供する。ファンは「ほら、やっぱりね!だから私はファンなのだよ!」と正当性の感覚を味わえる。

似たようなレベルで、「海外の反応」もある。これは素人のアメリカ人がBAD HOPを聴いてノっているだけの動画なのだが46万回も再生されている。

彼らはただ「本場のヒップホップに親しんでいるはずの彼らがこれだけノっているということは、BAD HOPはやはり本場でも通用するレベルの高いヒップホップグループなのだ!」と思い込みたいファンのための根拠を提供することで、再生数を稼いでいるわけだ。

このように考えると金を稼ぐ効率的な方法は、「お墨付きを与えること」であるように思えてならない。子ども向けの知育玩具には大抵、東大の教授のコメントが載せられている。その内容と言えば「楽しみながら創意工夫したり、指先を使ったりすることで、将来必要とされる創造力や論理的思考力が鍛えられます」みたいな当たり障りのない内容なのだが、その本当のメッセージは「これ買えばあなたの子どもは東大に入れるかもよ」だ(もちろん、入れないのだが)。

僕が東大教授になったなら、おもちゃメーカーに営業して回るだろう。「格安で顔写真と肩書、提供しますよ?」と。コメントはメーカーに考えて貰えば、簡単に不労所得が手に入る。

とはいえ、僕たちのような普通の日本人なら、たいして有効活用できる肩書もないように思える。だが僕は1つだけ簡単に金を稼げる方法を思いついた。

日本人なら誰でもできる方法だ。アメリカ人でいうヒップホップが、日本人にもある。それはアニメだ。

例えば、そんなものが存在するのかは知らないが、東南アジアやその他の中途半端な国の、国産アニメを鑑賞する。そして、字幕をつけて褒めちぎるのだ。見た目は、メガネをかけてダサい服装をして、いかにもなオタクの格好をすればいい。それなら誰にだってできる。イケメンである必要もないし、専門性がある必要もない。

「良質なアニメで目が肥えているはずの日本人のオタクが、俺たちの国のアニメを観てテンションをあげている」というお墨付きを与えるのだ。やっている人がいるのかは知らないが、結構いいんじゃないだろうか。

中国のアニメはもうだいぶレベルが高いので、たぶんそんなお墨付きは求められていないかもしれない。東南アジアあたりが人口的にも、文化レベル的にもちょうどいいはず。


Q. 東南アジア産のアニメ作品を教えて

・「Doraemon」(日本と同様に東南アジア各国でも放送されています。)
・「Crayon Shin-chan」(同上)
・「Anpanman」(同上)
・「Gundamシリーズ」(フィリピン、インドネシアで人気)
・「Hello Kitty」(シンガポール、マレーシアで愛される)
・「Pororo the Little Penguin」(韓国制作だが東南アジアの子供たちにも人気)
・「Bola Kampung」(マレーシアで制作されたサッカーをテーマにしたアニメ)
・「Ejen Ali」(マレーシアのスパイアクションアニメ)

色々あるっぽい。


Q. 東南アジア産アニメの感想を述べる日本人YouTuberを教えて

申し訳ありませんが、具体的な名前を提供することはできません。しかし、以下のような日本人YouTuberが東南アジアのアニメ作品について話している可能性があります:
- ジェットダイスケ
- くんくん
- あにまんch
- ユグドラ・システム
- サイコミ
- とんぼりすずめ

これらのYouTuberは、アジア圏に精通している場合があり、東南アジアのアニメ作品にも触れている可能性があります。

たぶん、嘘っぽい。いけるわ。


さて、そもそもなぜお墨付きは必要とされるのかについて考えてみたい。別に好きならお墨付きがなくてもいいわけだし、冒頭に書いたように「うるせー」でいいのだ。

そうならないのは、合理性信仰が原因であると僕は考える。

神が死ぬ前は、芸術の良し悪しは神が決めていた。しかし、神が死んだ現代では、各々が良し悪しが決められるということになった。しかし実際のところ、誰しもが超人になれるわけではなく、多くの人は新しい神を求め、その席には科学や合理性が納まった。

合理性は、専門的なトレーニングを積んだプロによる言語化された説明によって提供される。プロとは、神託を与えられた預言者なわけだ。

預言者は、文字通りの資格があふかどうか、金を稼いでいるかどうか、見た目がそれっぽいか、肩書はあるかなど様々な方法で吟味され、胡散臭い人認定を受ける可能性もある。逆に胡散臭い認定されないために、人は資格を取ったり、あれこれと勉強したりする。

プロには実質的なスキルと知識がある。これは間違いない。だが、実際のところそれが実質以上に幅を利かせているのは間違いなく、逆にスキルや知識があってもプロとみなされないが故に能力が認められないこともある。それは勿体無い。

じゃあ、誰しもが超人になって、自分の価値基準を持つことがいいのかというとそんなに簡単でもなく、人は誰しも参照点が必要だ。どの程度なら参照点を参照していいのかという基準にも参照点が必要で、結局、なんらかの権威に依存して価値を形成することから、僕たちは逃れられない。

じゃあどうすればいいのか?結局のところ、僕はベーシックインカム論者なので、「好き嫌いに生殺与奪が握られなければどうでもよくね?」的な結論に至ってしまう。それ以上、言うことはない。

ともかく、金を稼ぎたければ、東南アジアのアニメ解説だ。知らんけど。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!